おばあちゃんより10歳年下の、おじいちゃんは、目が見えなかった。
戦後すぐにメチールと言う、アルコールを飲んだためらしい。
そのメチールアルコールを飲んだ話は、世間には知られたくない話のようだった.。
しかし、近所の人は皆、知っていた。メチールアルコールは殆んど酒でなく どちらかと言うと、
消毒液のような物だと、後で、誰かに聞いたように思う。
戦後は、お酒などなかなか手に入らないため、酒好きな人は、分かっていても、手を出したのだろう。
おじいちゃんは、後悔していたかどうかは知らないが、お酒は毎日欠かさず晩酌をしていた。
コップに注がれた日本酒を、目が不自由なのに、上手に口に持って行き美味しそうにしていた。
それをみているおばちゃんも、少し、少な目のお酒を飲んでいた。そんな時の二人はとても仲がよく、
なにかしら 話をしていた。その部屋は、玄関を入ってすぐの3畳ぐらいの部屋だった。
小さな玄関には、植木を植えていて、たしかヤツデの葉だった。私は、そのヤツデの葉を見ると、
天狗が頭の中をよぎった。部屋の前に大きな石があり、部屋に入るにはその石の所にあがり、
靴なり、下駄を脱ぐのだ。今思うと、大変な高さがあり、目の見えないおじいちゃんは、よく落ちたり、
怪我などしなかったと感心する。今の私など到底、無理だ。ましてや、おばあちゃんに至っては、
利休下駄をはいていた。日和下駄とも云う薄い二枚葉がはまっている。前の所に被せの皮を
はめると 雨の日に履けた。おばあちゃんは台所での仕事で着物の裾が汚れないように
少し高いを履いていて、それで、起用に甲斐甲斐しく働いていたから、昔の人は凄いと思う。
その石の上に履物をおいて上がる。いまの私だと、もう大変と思うのに、目の見えないおじいちゃんも
おばあちゃんも平気で上り下りをしていた。何時、こんなにも現代人の、足、腰が弱くなったのだろうか。
私がご飯を食べるのは、その部屋の隣、また3畳ぐらいのところで、箱膳を前にして、食べるのだ。
そのころは一人一人、皆、箱膳だったから、おばちゃんたちも箱膳を向かい合って置いて食べていた。
献立は殆んど煮物とおつけものと味噌汁ぐらいだった。魚の粗と大根が多く、苦手だった。
食べ終わると食器は、一段下に降りた漆喰の土間の台所に持って行き、水を貯めたバケツの中で洗い、
拭くのが、決まった仕事だった。箱膳もきちんと拭いて仕舞わないとと叱られた。
そんな仕事が全部済んでしまうと、まだ、早いのに布団を敷きだす。キセルのタバコ盆セットを枕元に、
そして、ラジオをつけて、寅蔵の浪曲を聞く準備に入る二人だった。とても、仲良しだった。
利休下駄・ おばあちゃんのはもっと、安い感じのものだった。