幼き頃・・29・・・委員長になった!

生活環境が、転々としているような状態だったからか、学校にいる時間が楽しかった。

皆は家に帰るのが、楽しみで急いで帰るのに、私はなんとか学校に残って居たかった。

特に従妹のところにいる時は、意地悪な仕打ちを受けるのが嫌で、早く帰りたくなかった。

遅いと、叱られるのだが、その都度、なにか理由をつけた。逆上がりの練習をしていたとか、

実際、逆上がりはクラスの中でも、出来ない子の、最後の方で必死に練習していた。

手に豆が出来、潰れるまで練習した覚えがある。出来る子は何の苦労もなく、すっと上がる。

出来ない私には、それが神業に見えたものだ。そんな練習を、一人付き合ってくれた子がいた。が、

名前がどうしても出てこない。顔は覚えているのに残念だ。出来ない最後の方になった時、危機感で

押しつぶされそうだった。(私だけが出来ない!出来ない一人になったらどうしょう!)

泣きそうになりながら、力を入れて、大きく息をして、土を蹴った。 出来た!出来た!

その時の達成感は、なんとも云えなかった。 見上げた空がいつもより広く、大きな気がした。

勉強や体育はどちらかと言うと、出来る方ではなく、努力する方だったから、頭が良く努力しないでも

簡単に出来る人間と必死にがんばっても出来ない人間とがいるという事を、この時、嫌と言うほど

思い知らされていた。付き合ってくれた子もどちらかと言うと、私の部類に入る子だった。

だから、付き合ってくれたのかも知れない。

五年生になると、小鳥の世話や、学校通信の印刷の手伝いなど、本当にあった。

印刷は、ローラーにインクをつけ、一枚一枚刷って行くので大変だったから、先生も手伝うのを頼んでいた。

私は必ず率先して、手をあげて、残って手伝った。

5年、6年とを受け持って貰った先生が、生涯の中で一番好きで、良い影響を与えて貰った先生だった。

毛利先生!。残りたかった理由に、先生の側に居たかったのかも知れない。

私の環境も知って貰っていた気がする。目が優しく、頭はくりくりの天然パーマで、やや顔が長い、

笑うと、とても楽しそうな顔で笑った。怒ると、皆がびりっとなるくらいだが、嫌な怒り方ではなかった。

とくに社会科の時など、何にどんなように感じたかと、良く聴かれた記憶がある。

簡単な新聞記事を読んでくる様に言われ、それで、感じた事を発表させるのだ。

誰かが発表した事について、皆で、簡単な討論をするのだ。

私は、夏休みに預けられた梅田の家から、一人で帰る電車の中から見た、森之宮の焼け跡

工場地帯の事を発表した。「あの焼け跡は残した方が良いと思います。戦争を忘れないから」 と。

先生はとても 感心してくれ、皆で平和について話し合った覚えがある。

3学期に学級委員を決める選挙で、始めて委員長に選ばれた。努力の子が報われたのだ。

3学期は、頭の良い子が選ばれるのでなく、なんとなく、もう無いから選ばれるのだが、それでも、

うれしくって、その日だけは早く家に帰り、 「おばちゃん!おばちゃん!学級委員になったで!

ただの委員と違うで、委員長やで!長なんやで!」と。 日ごろ褒めて貰えないから、褒めて欲しくて

勢い込んで帰った。おばちゃんはやさしい顔で、笑って言ってくれた。 「良かったな!」と。

とても優しい顔だった。

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