チンチンカンカンと鳴る遮断機のところで、母の帰りを待ったあの駅近くで、
牛乳屋をやっている親戚があった。 父の二番目の姉さんの嫁ぎ先だった。
その頃の牛乳屋は、殆んど毎日、配達ばかりで、一軒一軒、朝早くに配達していた。
大きい荷台のついた自転車に、テント地で作った大きな袋を、両側の荷台にぶら下げ、
ハンドルにも袋をぶら下げ、牛乳瓶を一杯入れて配達していた。
学校から帰ると、時折、おばあちゃんが「牛乳のおばさんとこへ手伝いにいっといで」と行かされた。
今から思うとたぶん、おばあちゃんは、しんどくなった時、そうしたのだと思う。
周りの大人たちは、母が居なくなったため、残された私達をめぐり、いろいろ策をねっていたのだろう。
晩御飯をその家で食べるのは、楽しみでもあった。何しろ毎日、魚の粗煮でへきえきとしていたから。
牛乳屋はその頃羽振りが良かったと思う。でも、おじさん一人が、配達していたので、大変だったろう。
家には、年の離れた大きな従兄がいたが、市役所に勤めていた。手伝いに行かされてい時には従兄は
お嫁さんを貰い、丁度男の子が生まれたばかりで、子守りなどをたのまれたりしていたが楽しかった。
子守りと言ってもたいした事も出来ず、泣いたらあやすぐらいだった。
それよりメインの仕事の手伝いが大変だった。今だと考えられない仕事だった。
牛乳瓶の蓋の仕分けなのだ。裏の庭にいっぱいに乾かした蓋を、綺麗なのとダメなのを選るのだ。
穴の開いていない綺麗なのをまた使うのだ。本社からの指示で、本社に返して再利用していた様だった。
綺麗なふたは、月曜から日曜日まで、曜日ごとに選り分けるのだ。
小さな判子で月とか押されているのを、分けていくのだ。蓋の量を見ると気の遠くなる作業だったが、何故か
子供の私の目にくるいはなく、また、褒められ、調子に乗せられて、その大変な仕分けをやってのけた。
「本当によくやるし、はやいなあ~~」と周りの大人に言われ、調子に乗っていた馬鹿な私だった。
今ならすぐに営業停止で、<吉兆女将の記者会見>となってただろうに、その頃は当たり前の事だった。
瓶も綺麗に洗って本社に返していた。手伝いをしたら、駄菓子を買うぐらいの、お駄賃をもらった。
その家での、夜ご飯は、ご馳走が多かった。
おじさんは背は低くて、頭もまん丸、体もまん丸で、だるまさんのようだった。座るとお腹がぽっこりで、
本当にだるまのようだった。だから、食べ物もしっかり食べる人で、すき焼きが多かったのがうれしかった。
何か祝い事みたいなのがないと、すき焼きなどは、日常に口に出来なかったから、子供の私は、
「この家は凄い金持ちや!」と思っていた。またこの頃にしては珍しくすき焼きにビールを入れていた。
その事も驚きで「やっぱり、金持ちは違う!魔法みたいなことしてるわ!高いビールをいれているなんて!
大人になったら、私もすき焼きにビールを入れる大人になろう。」と。
今は、金持ちでもないが当たり前に、すき焼きにビールを入れている。
蓋の仕分けをした後のすき焼きは、本当に美味しかった。不思議な仕事をした小学生だった。