あの身勝手な父のあだ名が、親戚の叔父や叔母の間で、「豆腐や」と言われていた。
「豆腐屋ってなんでや?」と、疑問に思っていたが私は親戚の人たちが好きではないので
聞く勇気もなかった。ある時叔母と祖母が「あの おおぶろしきが」と父の事を話している。
聞き耳を立てていたら、「すぐに大きな話してからに!1兆 2兆って!言うてからに!
せやから豆腐屋ツて言うねん」と。あ~そう言うことか「1兆は1丁かそれで豆腐屋か」と、
凄く関心してしまった。別に父はそれで人を騙したのでなく単純にええ格好しいやったんや。
何時だって変なプライドを持っていたから事業に失敗しても、這い上がり小さくても良いから
会社を設立して「社長」と呼ばれたかったのだ。 父が亡くなるまで余り会わない状態が、
あったのだが最後の居場所の老人ホームでのあだ名が『社長』だったと聞き笑ってしまった。
また、そのホームでは「過去三大名物爺さん」だったとか。
「明日東京で取引の会議があるんで」と言い、目を離したら本当に駅の方にお洒落をして
行ってたりとか 毎日薄くなった眉毛を描いてたとか、首の皺を隠すのにスカーフを
巻いてたとか、自分の棚があり、コーヒーを入れるのが好きで、老人たちがもめると、
「さあー コーヒーでも入れまひょか」と言い、甲斐甲斐しく入れて、
ムードメーカー的存在を引き受けていた様である。
それはお金のない時に、私の貯金箱を割り映画を観る父と、私の中で繋がっている。
どこか憎めない子供のような薄笑いを浮かべていたように思う。
今思うと祖母の家に一家で転がり込んだ時、祖母は確か77歳くらいだったと計算する。
そんな年齢で母親とはそりが合わず、子供がいて金がなく当然祖母は困惑し、キツイ顔しか
出きなっかたのだろう。おまけに母は出て行くし、子供の私とかをどうやったら良いか
分からなかったと思う。その頃はキツイので嫌いだったがきっと身体もしんどかったろうに。
頼りになる父の事は、母として可愛かったのだろうと、今なら、充分に祖母の事が分かる。
でも、あだ名が<豆腐や>の、のん気な父は、死ぬまで分からずだったろうね。
景気の良かった頃。後ろの2番目の偉そうな父。
社員旅行のようだ。昔の伊勢!夫婦岩かな?