夏休みに預けられる家<梅田のおばちゃん>のところは小阪とは別世界の所だった。
でも子供の私には決して楽しい場所ではなく、ただいつもと違う異空間で、見るものや
感じるものが多くあり、不思議なちょっと大人になるような、そんな錯覚に陥る場所だった。
阪神百貨店の裏にあり、御堂筋から1本入った所は繊維、特に毛布類や布団の問屋街で
ごちゃごちゃしていた。道も軒のテントとかが出るととても狭く、昼間に子供が遊べる所では
なかった。叔母の家に出入りするには御堂筋から小さなタバコ屋と靴の修理屋の路地を抜け、
店の横の入り口から入る。正面はパチンコ屋側にあり客が来るから家主の方が気遣うのだ。
トイレも階下にあるため私もトイレに行くのは気を使った。さすが都会でその頃に、<水洗トイレ>
だった。上からチエーンがぶら下がっていてそれを引っ張るタイプで時々流れないときもありトイレは
やや緊張する場所だった。小阪のくさいトイレの方が安心して出来たが夏休みが終わると友達には
自慢げに<水洗トイレ>について説明する嫌な子だった。 「凄いで水でうんこが流れるねんで。
くさくないねんで。紙芝居も夜来るねん。凄いやろ!やっぱり都会は違うわ!」と。
大人がやっと一人通れるぐらいの狭い路地は何時もおしっこの臭いがしていた。
御堂筋からそんな路地が何本もあり、抜けると毛布のなどの問屋街に出る。夜も賑やかだが
昼の問屋街も人が多かった。大人たちの顔はけっして明るくはなく皆何故かしら険しかった。
戦後から何年か経ってやっと食べるものとかはあっても生活するのに厳しい時代だったのだろう。
戦争は人間から笑いや柔らかさをも奪っていたのだと思う。その頃の私はそんな大人をすべて
怪しいと見ていたのかもしれない。夜になると酔っ払いのおっさんたちがおしっこをするし吐くし、
叔母の所のおばあさんが毎朝水を流して掃除をしていたがそれが乾くと二階にまで臭いは
上がって来ていた。
夜は薄暗く路地は電気もついていない、周りの明るさでぼんやりと黒く光っていた。そんな所を
時々大きなねずみが走り回り抜けていく。私が怖がっているねずみは小阪のそれとは比べ者にならない
三倍の大きさはあった。おしっこをするおっさんや、酔っ払いや、怪しいパチンコ屋周辺の大人など
毎日 二階の窓からどきどきしながら見ていた。夏休みは、緊張とわくわく感とが妙に入り混じって
少し大人になって終わって行った。
阪神の裏は今の第4ビル近くで、開発されるまで随分と長い間かかった場所だ。成人して梅田から
淀屋橋付近まで歩いて会社に通勤していたことがある。その頃でもやはり阪神の裏は怪しげな所だった。
夜になると おばちゃんが出てきて「兄ちゃん 良い子いるで」と所謂客引きが多い場所で有名になっていた。
私からすると 昔のパチンコ屋辺りのおばちゃんが職業を変えたように見えたぐらいだ。
叔母たちは早々と立ち退いていて西宮の方に引っ越していた。たぶん 今宝くじが良く当たるとされている
場所に広場があるがあの辺りが叔母の家付近だと思う。綺麗になった阪神の裏だが未だに私はあの頃の
梅田 御堂筋が強烈に重なって見えてくる。
大阪駅前の写真。 丸いカーブの阪神百貨店。この裏がわに、毛布などの繊維街が、あった。
コメント
じゃりん子のの日記、いつも楽しませてもらっています。
ののさんより少し若い私ですが、阪神南側の雑然としたあたりはよく覚えています。そのあたりで飲んだことも。長瀬に住んでいたガキの頃、オフクロが映画に連れて行ってくれた布施駅前、上六裏通りの飲み屋、闇市の匂いのする場所でした。再開発とやらで、そのようないかがわしく魅力的な場所が次々と消えていったのはさびしかった。闇市跡の匂いをもう嗅げなくなった。のの日記が思い出させてくれます。
楽しんでいただいてありがとう。
するどい顔の大人たちは生きることに必死だったのですね。
子供にはみんな悪者に見えていたものです。
布施にも映画館が沢山ありましたね。上六には汚い「ミンミン」がありました。
成人して行った時は学生でいっぱいの店でしたね。
綺麗になってもシャターが閉まっている店や商店街が多い方が寂しいですね。
汚い「ミンミン」初体験は阿倍野店。高校生だったので1967、8年の頃。大学生になっていた剣道部先輩が連れて行ってくれた。オカンは洋食、中華を作れなかったので、あの味は未知の世界。名物餃子が食べれなかった。いま、思い出してもくやしい。「ミンミン」は、あの汚さがいいですね。