何故その頃、留守番をしなければならなかったかと言うと家からは、いろんな物がよく盗まれていた。
父や母はだいたい犯人が分かっていたようで誰かが留守番をしていれば誰が来ていたか位
分かったからだと思う。ある日父のワイシャツを台所にかけていたが少しの窓の隙間から何かに
引っ掛けて器用に盗った者がいたらしい。その器用作で「あいつや!間違いない」と話していた。
あいつとは手伝いと称して家に来てたおっちゃんだ。
何をしていたか分からないのだが、少しの大工仕事をしていたり、庭の手入れをしていたりだったが、
どうもその時めぼしい物を物色してたんだろうと父と母は話していたように思う。
ワイシャツは貴重で高級、殆んどは、個人仕立てをしていたので一枚でも大事だった。
だから外には干さず、中に入れていたのを竿と針金のような物で盗ったみたいだ。
以来おっちゃんは現れなくなった。
それだけ世の中は不景気になっていた。ちょうど、1950年頃の世界恐慌だった年だ。
後に社会科などで習ったとき「あぁ~あの頃か」と思った。 父の仕事もいよいよダメになるようだった。
最後の工場で作っていたものが家の中で遊び道具となりごろごろと散乱していた。
それは自転車の鑑札だ。ハンドルのところに、はっきりと分かるように取り付ける物だ。
今だと車のナンバープレイトなんだろう。ナンバーが打ち込まれる仕事だから、その工場としては、
国からの仕事か、府の仕事だったのが取りやめになったのだろう。だから倒産として大きかったようだ。
父は家にいることが多くなる。畑を人に任せていたが自分の所の野菜だけ育てだした。
家から少し離れたイチゴ畑の場所だが日当たりが良いように少し高台にあった。
そこに水や肥料になる肥えを運ぶのは大変な仕事だった。
ましてや素人で社長業が好きな人間だから・・・。<肥え担ぎ・・肥えひしゃくで便所口より汲み取り肥え桶にいれ
天秤の中央をかつぐ>。今だと何のことか分からない人たちが多いと思う。
父も家から天秤棒を担ぎ坂をくだり サンルームから皆が見ている前を通り又、坂を上がりして運んでいた。
2回目位のとき皆が見ている前でひっくり返り肥え桶からの肥えを思い切り被ってしまった。
私達はびっくりと同時に大笑いしていた。一番笑っていたのは母だった。
父は何やら喚いていた。何を言っていたのか分からなかった。
ただ あんなに笑っていた母の顔は忘れない。母の笑った顔を見た最後だったのだと思う。