幼き頃より・・60最終・・おじいちゃんとおばあちゃんの別れ

第二室戸台風は去った。家の中は、手のつけ様もない状態。呆然とするだけ。

高校生の私と20歳になったばかり姉と老人二人では、どうしょうもない。

困っているところへ、呑気そうな声!父と従兄とが「大丈夫か?」と。

在らぬカッコウだった私達は何とか服を着替えていたが、消防団の人は、

心配して残ってくれていた。

消防団の人は「大変な状況だったんですよ」と父達に説明。

あの格好を見た二人は、台風の被害の事を言っているのは、分かっているが、

私らの心の中は<えらい格好を見たくせに!>は、ぬぐえなかった。

その頃、父たち(若い嫁さんと幼稚園に通う弟)は、同じ町の駅前に住んでいた。

自分の親と私達が一緒に住んでいるのに、やはり気になっていたのか、親戚の口を

気にしていたのか、85歳のおばあちゃんと75歳を過ぎたおじいちゃんの面倒を

高校生の私と姉がみていたのだから・・・。

取りあえず、家の修理は大工さんに頼んで直してくれ、普通の生活が戻りはした。

しばらくしたら、おばあちゃんもおじいちゃんも急に弱り出したのだ。

昼は近くに住んでいる叔母たちが、祖父母のご飯とかを作りに来ていた。

私達の夕食とお弁当は私が作っていた。父から食事代を預かるのも私だった。

まだまだ世間もそんなに贅沢ではなかった頃、高校生が生活費のやりくりをし、

主婦のように工夫したり、友達は遊んでいるのにと暗い気持ちで落ち込んでいた。

ある日突然!梅田の親戚が来て、おじいちゃんを戸板に乗せ、タクシーに運んで行った。

おじいちゃんの具合は変だと思っていたが、その頃、おばあちゃんもほぼ寝たきりになり、

戸板に乗せられて行くおじいちゃんを布団から這い出て「おじいさん!おじいさん!」と、

玄関口まで這って追うように見送っていた。力もそんなに出せないから肘で進んでいた。

おじいちゃんは首を少し上げるのが、やっとだった。

私達には何も説明してくれずいきなりだった。それでもなんとなく分かるので、

<おじいちゃんとはもう会えないかもしれないな!>と、思うと涙が止まらなかった。

二人の引き裂かれるような別れが、戸板に乗せられているおじいちゃんの姿と、

それを這って追うおばあちゃんとが、余りにも悲しい姿として未だに残っている。

何故に戸板だったのか分からないのだが・・・。

目が見えないのに庭の手入れし、四季折々いろんな花を咲かせてくれていたおじいちゃん。

きっと、おばあちゃんを喜ばすためだったんだろう。

本当に仲がよく毎日晩酌をしていた二人、後家さんで4人の子供が居るおばあちゃんと、

10歳も年下のおじいちゃんは、駆け落ち同然に、いっしょになったと聞いていた。

明治の女は強い!

そして、一番下のおばちゃんを授かったのだ。それが梅田のおばちゃんだった。

おじいちゃんにそっくりで、目が優しくさがっているのが人をほっと和ませてくれる。

それから、しばらくしておじいちゃんは、亡くなった。

葬儀は、梅田の叔母ちゃんのところで、済まされようだったが、おばあちゃんが、

何時までもおじいちゃんが<帰って来る>と思いどんなに説明しても納得しなかった。

仕方がないので、おじいちゃんのお葬式をこの家でもう一度おこなう事になった。

そうすると、祭壇の写真を見て、オイオイと大泣きするおばあちゃんだった。

ちゃんと霊柩車も来て中身はない出棺が執り行われた。やっと納得したおばあちゃん。

これは、きっと、父が母なる人への愛情ある粋な計らいだったと、今にして思える。

おばあちゃんもその後、私達にはどうする事も出来ない状態になりおばのところへ行った。

時々、会いに行くと「あれが、いけずで何も食べさせてくれへん!」と叔母の事を言うのだ。

意地悪だったおばあちゃんが可愛い赤ちゃんになっていた。

88歳でおじいちゃんのところへ。

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この<幼きころから>を綴りたくてブログを始めるきっかけになり60話にもなった。

この後はもう大人への道に・・・で、一応終ります。

幼い頃から私の中で関わった人達、その中で、もう一度会いたい人といわれると、

血の繋がりがないのに、おじいちゃんに会いたい。

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