第二室戸台風は去った。家の中は、手のつけ様もない状態。呆然とするだけ。
高校生の私と20歳になったばかり姉と老人二人では、どうしょうもない。
困っているところへ、呑気そうな声!父と従兄とが「大丈夫か?」と。
在らぬカッコウだった私達は何とか服を着替えていたが、消防団の人は、
心配して残ってくれていた。
消防団の人は「大変な状況だったんですよ」と父達に説明。
あの格好を見た二人は、台風の被害の事を言っているのは、分かっているが、
私らの心の中は<えらい格好を見たくせに!>は、ぬぐえなかった。
その頃、父たち(若い嫁さんと幼稚園に通う弟)は、同じ町の駅前に住んでいた。
自分の親と私達が一緒に住んでいるのに、やはり気になっていたのか、親戚の口を
気にしていたのか、85歳のおばあちゃんと75歳を過ぎたおじいちゃんの面倒を
高校生の私と姉がみていたのだから・・・。
取りあえず、家の修理は大工さんに頼んで直してくれ、普通の生活が戻りはした。
しばらくしたら、おばあちゃんもおじいちゃんも急に弱り出したのだ。
昼は近くに住んでいる叔母たちが、祖父母のご飯とかを作りに来ていた。
私達の夕食とお弁当は私が作っていた。父から食事代を預かるのも私だった。
まだまだ世間もそんなに贅沢ではなかった頃、高校生が生活費のやりくりをし、
主婦のように工夫したり、友達は遊んでいるのにと暗い気持ちで落ち込んでいた。
ある日突然!梅田の親戚が来て、おじいちゃんを戸板に乗せ、タクシーに運んで行った。
おじいちゃんの具合は変だと思っていたが、その頃、おばあちゃんもほぼ寝たきりになり、
戸板に乗せられて行くおじいちゃんを布団から這い出て「おじいさん!おじいさん!」と、
玄関口まで這って追うように見送っていた。力もそんなに出せないから肘で進んでいた。
おじいちゃんは首を少し上げるのが、やっとだった。
私達には何も説明してくれずいきなりだった。それでもなんとなく分かるので、
<おじいちゃんとはもう会えないかもしれないな!>と、思うと涙が止まらなかった。
二人の引き裂かれるような別れが、戸板に乗せられているおじいちゃんの姿と、
それを這って追うおばあちゃんとが、余りにも悲しい姿として未だに残っている。
何故に戸板だったのか分からないのだが・・・。
目が見えないのに庭の手入れし、四季折々いろんな花を咲かせてくれていたおじいちゃん。
きっと、おばあちゃんを喜ばすためだったんだろう。
本当に仲がよく毎日晩酌をしていた二人、後家さんで4人の子供が居るおばあちゃんと、
10歳も年下のおじいちゃんは、駆け落ち同然に、いっしょになったと聞いていた。
明治の女は強い!
そして、一番下のおばちゃんを授かったのだ。それが梅田のおばちゃんだった。
おじいちゃんにそっくりで、目が優しくさがっているのが人をほっと和ませてくれる。
それから、しばらくしておじいちゃんは、亡くなった。
葬儀は、梅田の叔母ちゃんのところで、済まされようだったが、おばあちゃんが、
何時までもおじいちゃんが<帰って来る>と思いどんなに説明しても納得しなかった。
仕方がないので、おじいちゃんのお葬式をこの家でもう一度おこなう事になった。
そうすると、祭壇の写真を見て、オイオイと大泣きするおばあちゃんだった。
ちゃんと霊柩車も来て中身はない出棺が執り行われた。やっと納得したおばあちゃん。
これは、きっと、父が母なる人への愛情ある粋な計らいだったと、今にして思える。
おばあちゃんもその後、私達にはどうする事も出来ない状態になりおばのところへ行った。
時々、会いに行くと「あれが、いけずで何も食べさせてくれへん!」と叔母の事を言うのだ。
意地悪だったおばあちゃんが可愛い赤ちゃんになっていた。
88歳でおじいちゃんのところへ。
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この<幼きころから>を綴りたくてブログを始めるきっかけになり60話にもなった。
この後はもう大人への道に・・・で、一応終ります。
幼い頃から私の中で関わった人達、その中で、もう一度会いたい人といわれると、
血の繋がりがないのに、おじいちゃんに会いたい。