幼き頃・・・6・・・梅田の親戚(2)

相変わらず2階の窓は、私の居場所。飽きる事は、ない世界!今日もパチンコ屋がまぶしい!

そこへ、来たのは紙芝居!夜に紙芝居が来るのだ。パチンコ屋の明かりの下で紙芝居を見るのだ。

夜に、紙芝居!なにかの間違い?びっくり!しかし、拍子木を打つおじさん!

そして、拍子木の音が聞こえると、子供たちがどこに隠れていたのかワラワラと出てくるのだ。

昼の間、子どもは一人も見ていない。こんなに子どもが居たなんてと、昼はどうしていたのか?

私と同じように2階の窓から見て遊んでいたのか?。不思議だった。

しかし、都会の子供に気押され、出て行けず、また2階の窓から眺めていた。

一人でそうしていても、観察するのが好きだったから楽しかった。

その親戚にも、おばあちゃんがいたが、やさしく、 毎朝、お茶の袋を入れたお粥を食べていた。

一度食べたが美味しくはなかった。お粥が、お茶色をしていて不思議だった。

確かふるさとの食べ物で、毎日食べるのが当たり前だと。和歌山か吉野の方だったのかなー?

叔父さんも時々お粥を食べていたから、やはり風習だったのだろう。

おじさんは、お酒も好きだったので、おばあさんは、家で息子の為にぶどう酒を作っていた。

ある日、ぶどう酒のビンを突いて、蓋をし、満足そうな顔をしたおばあちゃんだったが、しばらくすると

爆発音がして、蓋をした瓶からぶどう酒が吹き上がっていた。一滴も残らずに、噴いていた。

びっくりし、みんなが集まった。唖然とし無言、しばらくすると、みんな大笑いをしていた。

面白いおおらかな親戚の人たちで大好きだった。

何度か梅田の家での夏休みを過ごすと、一人で環状線で帰れるようになっていた。

その頃は、<ショウセン>と言っていた。

<鶴橋で乗り換えて(小阪)!> それを何度も繰り返し、しっかり自分に言い聞かせた。

しかし、京橋に近づくと、胸のドキドキが止まらない。窓の外を、見るのが怖い!しかし見てしまう。

今の大阪城公園辺りだ。

戦争中の空襲で、焼け焦げた工場などがそのままで、川は濁りそのそばには、バラックがいっぱい建ち並んでいた。

その風景はなんど見ても慣れることがなく、子供の目にも、つらく移っていた。

随分とたってから、<開高 健の「日本三文オペラ」>を読んだ。衝撃だった!。

アパッチと言われた人々が あの時にあの場所にいたんだ。

在日朝鮮人との生きるための壮絶な戦いがあそこに、あったんだ。

私が見た焼け焦げた工場の、くず鉄を奪い合う戦いと、必死に生きる人々がいたんだ。

そして、電車の窓から見ている小学3年生の私が、同時にいたのだという変な感動が胸をしめつけた。

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