母との思い出が少ないのは、暮らしていた期間が短いから当たり前のことなんだが
それは余りにも無いから、逆に深く残っている事が多い。
小学校2年の運動会前に出た母は、私が一番下ということもあり、寝るときに必ず子守唄を
歌って寝かしつけてくれていた。家を出る日まで。
唄が好きだったというのもあるかも知れないが、殆んど毎日歌っていた。
三人それぞれの子守唄と言うのがあって、兄は日本の子守唄だった。
日本の子守唄は江戸と浪花と二つあるようだが、母のは江戸だった。
子守唄というのは、元々親が歌うのではなく、昔、小さいときに、子守りに出された娘が
遠い故郷を思って歌ったのだそうだ。だからなんとなく、物悲しいのが伝わってくる。
特に、この子守唄はそんな響きを持っている。
ねんねんころりよ おころりよ
ぼうやはよい子だ ねんねしな
ぼうやのお守りは どこへ行った
あの山こえて 里へ行った
里のみやげに 何もろた
でんでん太鼓に 笙の笛
故郷を 想っているのが、突き刺さってくる子守唄だ。 これは 兄のために歌った子守唄だった。
姉のは、 ハイカラでシューベルトの子守唄だ。しかし、これも 悲しいのは幼くして母を亡くした
シューベルトが母を想って 作られた歌だったようだ。
ねむれ ねむれ 母の胸に
ねむれ ねむれ 母の手に
こころよき 歌声
むすばすや たのしけれ
これは 姉のために 歌うのだった。
そして 私のは 中国地方の子守唄だった。
ねんねこしゃっしゃりませ
寝た子の 可愛さ
おきて 泣く子の
ねんころろ つらにくさ
ねんころろ ねんころろ
私のために歌ってくれていた。
三兄妹に、それぞれに違う子守唄を歌っていた母、家があのままだったら、いろいろと私達を育てる理想は
あっただろうにと思われる。 私の子守唄を姉が歌ったら「私のん!あかん!」と怒っていたのは覚えている。
よき時代を何事もなく過ぎていたらと・・・。
時代の移り変わりが大きく人生を変えてしまったのだと、母を想うと、そこのところに行き着いてしまう。
古い母の生家の写真が出て来た。母はまだ 存在していない。
考えて見るとそんなに年数が経っていない気もするのが可笑しいのだが、母方の一族のようだ。
後ろの真ん中で偉そうにしているのが、私のじいさんだったようだ。
ひょっとしたら、前列の人など、竜馬を見た人が居そうな気がしてくる。