幼き頃・・・7・・蝋石は必需品

梅田のおばさんの所には、私より3才下の従妹がいたが、都会の子の雰囲気がしていて

なんか年下なのに負けている気がした。その界隈の子供たちは着るものとかもお洒落だった。

(やっぱり小阪と違う。ましてや私はねえちゃんのお古やし。ちょっと気軽に遊ばれへん)

いつも姉のお古の服を着せられていたし、その頃と言うより小さい時から着るものには、

私なりに拘っていて、敏感だったから、余計に気押されて窓から見ていてなかなか下には、

降りていけなかった。

ある日、紙芝居も去った後で、もちろん夜、パチンコ屋の前の道路に、蝋石で絵を描いたり、

(ケンケンパ)と自分の石を蹴って進んで行く遊びが始まりだす。

その遊びは小阪でも遊んでいたし得意だったから、勇気を出して下の集まりに入れて貰いに行く。

従妹の紹介もあり、それ以来、時々都会の子たちと馴染みだしたが、本心はやはり気押されていた。

ただ、遊ぶには蝋石は必需品だった。(これさえあれば遊んで貰える、それに蹴る石のガラスのきれいなのも

持っているし、これは自慢の物やしいけるわ)と。子供は子供で付き合い方にいろいろ悩むもので気も使うものだ。

それは今も昔も変わらないのかも知れない。昔ははっきりと差別するのが当たり前だったが、

今のように、陰湿ではなかったように思う。傷ついている人ももちろん多かったが、

傷をつけている側も皆、貧乏だったから、ホンの少しの優越感を持ちたかったのだろう。

子供もそんな大人を見ていたし、影響は当然あったから、平気で、お前!朝鮮人やろとか言っていた。

ただ言うだけで遊ぶのは遊んでいたと思う。先生たちも給食代を払わない子に、皆の前で平気で

「おかあちゃんに言うとき、早よう持ってくるように!」と言っていたのを酷いとも思わないでいた。

とりあえず、無事に夏休みは、都会の子の仲間入りは一応出来ていた。

小阪に帰ると、友達には、「梅田はちがうで~、都会やわ~。夜に、夜にやで、紙芝居が、来るねんで!

お便所も水洗やねん!水洗って知らんやろ?水で綺麗に流れて、臭くもないし凄いねんで~水洗は!」と、

鼻の穴を膨らませて自慢していた嫌な子だった。他に自慢するのが少なかったから・・・。

ところで「私の自慢のガラス」蹴る物の名前が分からない。

ビー玉のガラスと同じで1センチぐらいの厚みがありいろんな色が入っている。

大きさはおせんべい位の丸。

投げるのでなく滑らせる、そして、蹴りながらすすむ。

いろいろ 昔の遊びで調べたが載っていない。図ははっきりと分かるので描いてみた。

ほぼ正確と思う。が ガラスの玉とか遊びの名前とか知っている方よろしく。

中原淳一のえはがきです。

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コメント

  1. JOE より:

    テスト書き込み。 そやけど、なんでトラ?

  2. 眞奈美 より:

    これで、いけるんかしら?私にかぎってうまく行かないような。
    ぷぁ玉は、今でも夢に見ます。横着して、ホット・プレートで、作っています。

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