むちゃくちゃな父は、あの大変な事業の失敗から、立ち直り、いつの間にか、会社を始めていた。
私が、小学2年の時に倒産し、母がいなくなり、祖母や叔母の所を転々と、動かされていた間に、
父は羽振りが良い様になっていた。それは、時々帰って来ると、お土産があったり、服を買ってくれたり、
お小遣いをくれたり、ニコニコしていたり、そんな風な変化に子供は、敏感に状況を把握していくものだ。
子供が分からないと思っているのは、大人だけで、殆んどの事は、分かっている。
本当に、どうして上手く這い上がったか、何をして会社を設立出来たのか分からないが、ただ悪いことは
居ていない男だった。むしろ、その後も以前も、人が好いので騙され、会社を乗っ取られたりしたらしい。
どん底で母も出て行ってしまったあの時、しばらくして父はもうだめだと思い、寝ている私の首を絞めかけたらしい。
丁度その時、仕事での吉報の知らせが電報で、来たのだ。ドラマのようだが・・・。
父が 「おまえは、本当はこの世に居なかったかも知れへん。お前はまだ小さいから不憫に思い、
一緒に死のうと首に手をかけたら、そしたら 電報が来たんや!ある意味、お前が救いの神かもな」と。
平然と笑って、皆の前で話していた事があった。 まぁ、生きていたから笑って話せたのかも知れないが、
親に首を絞められそうになっていた私自身を、想像するとぞっとした。
そして、そんな話を、まるで落語のネタのように話す父を、白けて見ていた。
母には、夜中に連れ出され、どこかに連れて行かれたかも知れないし、父には、無理心中をしょうと
首をしめられかけ、酷いと思うが、両親にとっては、まだ幼い私をどうするか、思いあぐねていたのだろう。
とりあえず、しばらくは安泰の日々だったが、何時また、酷い生活が来るか分からない不安はあった。
いい時はとにかく派手、あだ名が<とうふ屋>だから。そんな親を持つ子供は、日々、ウカウカしていられない。
ある独特の、緊張感を持って生活していたものだ。そして、逞しくなっていったかもしれない。
おじいちゃんが丹精こめて作っていた小さな庭の角が、厠だった。今や、厠と言っても分からない人もいるか?、
トイレ、雪隠、お手洗い、などなどいろんな言い方がある。この家のは、厠と呼ぶのがふさわしい気がする。
厠の窓から手を洗う物が、ぶら下がっている。そして、少し汚れた日本手ぬぐい。
その下には、ひしゃくで手を洗うための、苔むした石の手洗いがある。側にはシュロとヤツデが植えられていた。
これは、その頃の定番のような風景である。一種の流行のようなものだろう。
昭和の映画を観ると、必ずこんな風な家が出て来る。
そして、肥え汲みの、取り口がある。定期的に汲み取り屋さんが来る。バケツを持って来て水を流す。
そして、心ばかりのお礼と時には、タバコなどを、おばあちゃんは渡していたように思う。
何時の日からか、羽振りの好くなった父が、朝から厠で、何やらウナッている。
あ~~~~や~~~な~~~~とかである。 新内と言うものらしい。
が、あろう事か、父は新内を習っていたのだ!。
なぜ?と疑問だったが、当の本人は至って真面目で毎朝、かなりの時間、厠でウナッテいた。
臭いし、しびれもきれるのに、わざわざ何で厠やで?なんで?
きっと祖母や祖父には、聞かれたくないためだったのか?小さな家だから聞こえていたはずだが。
そのうち、セリフのところに来ると、私が覚えていて、「ちょいと そこへ 行かれるお兄さん、お待ちなさいな。」と。
父が言う前に言ってやるのだ。ずっと、同じ題目で、<明治一代女> だった。
ゥ~~~~あ~~いぃ~~こ~~~~ろ~~~~とか、とにかく、ウナッているのが、可笑しかった。
先にセリフを言っていると、とうとう、「おまえが、先に言うと、調子が狂う、やめろ!」と叱られた。
本人は真剣で、ある時、<産経ホール>での 発表会に出たのだ。とても大きなホールだ。
大人になってから、芝居や美輪さんの歌などを聴きに行ったものだった。そのホールで習いたての新内を、
着物に袴で、出たのである。しかし、その日以後、何故か、ピタリと厠でウナル声が、聞こえなくなった。
発表会での出来ばえがよくなかったのではないか、?とも考えられる?。挫折か?
はたまた、教えて貰っていた師匠が、美人だったとも、考えられる。振られたのか?。
真実は分からないまま、我が家の厠は、元の静けさを取り戻した。だが、私の楽しみは終わった。
小学4年生の女子! <明治一代女> 新内のセリフ言えます! 誰が聞くねん!