幼き頃・・・18・・母が出た日

小学校2年の時に高槻から小阪に来て夏休みも過ぎ、やっと新しい学校にも慣れ

友達も出来、運動会の準備が始まりだした。運動会では「めだかの学校」を踊るのだ。

学校から帰ると母が暑い中、布団の綿を入れ替えている。その側で踊って見せていた。

その頃は布団は綿を打ち直しに出し、柔らかくなった綿を布団に入れる。

一人でする作業としては大変で、たいがいは誰かとするのだが仲が悪かった祖母とは

一緒にしているのを見た事がなかった。布団の布の部分を裏返しにしてその上に綿を

均等に置いて行く。四角い布の周りをあっちに行ったりこっちに来たりして綿を置いて行く。

その後誰かと端を持って引っ張り合いをしなければならない。小さい私でも力は無くても

少し持つことは出来たので手伝いの真似事していた。母は余り何も出来ない人だったのに

布団の入れ替えはよくしていた。家事が苦手の中で唯一得意な仕事だったのかもしれない。

頭に日本手拭で<姉さん被り>をしていかにも良く働く主婦のように見えた。母のその姿は好き

だった。その側で「めだかの学校は池の中~そうっとのぞいてみてごらん~」と踊っていた。

二人一組になって踊るのだがそれも説明しながら踊るのを母はニコニコして見ていた。

その夜にあんな事が起こるとは何も知らなかった。

夜中だったか朝早くだったか定かでないが母に起こされ気が付いたらタクシーに

乗せられウロウロしていた。その時、母が「このまま おかあちゃんと何処かに行くか?」と

聞かれて何のことか分からず、少し考えて「でも、また、新しく友達作らなあかんやん」と

言ったのだけ覚えている。

また気がつくと家に着いていて家の中は父や親戚やら集まり大騒動になっていた。

朝ごはんを急いで食べさせられ「早よ 学校に行き!」と言われ、なんか不安だったのに

そのまま学校に行かされた。その日、学校から家に帰ると母の桐の箪笥がなくなっていて

母もいなくなっていた。あのまま、母と私は死ぬのではないかと父や祖母や親戚が集まり

騒ぎとなっていたらしい。母が戻った理由は私の「又友達つくらなあかん」との一言らしかった。

母は家を出る気でいたから、気になる布団の綿を入れ替えていたのだろうか?

私の踊りを見せてと言っていたのはもう見れないと分かっていたからだろうか?

私だけを連れて行こうとしたのはまだ母を必要とする年齢で気になっていたからだろうか?

なんとなく分かっていたような気もしていたのに・・・・。

その日から夕方になると、駅に行き母が大阪から帰ってくるかと遮断機の所で待ち続けた。

チンチンカンカンと遮断機の音を聞きながら大阪から来る電車にほんの少し期待して待った。

母は用事で大阪に行くと何時も夕方に迎えに行っていたから、今回も帰ってくるのでは?と

微かな想いで待っていた。

何日か過ぎたある日、姉が来て「帰えろ!帰るで・・もうおかあちゃんは帰って来ないから!」

「わかっている!電車見てただけや!」姉や皆は私が駅に来ているのを知っていたのだった。

誰もどうすることも出来ず、どう説明することも出来なかったようだった。

「あの家でもうおかあちゃんの事言うたらあんで」「分かってる」以来私は<おかあちゃん>の言葉を

口にしなくなった。でも 運動会は来てくれるのでは?と期待し、そわそわして見渡していたが

母の姿は最後までなかった。

母への記憶は小学校に入る前から布団の綿を入れていた夏の終わりの2年生、それが最後になった。

母が居なくなった次の日に、長い自慢の髪の毛を切られた。

母との決別のように切られたおかっぱ頭の女の子。

遮断機のチンチンカンカンの音と女の子の後ろ姿がはっきり今も出てくる。

不思議だが私がその子を見ていた。

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