6年間の小学校を、終えた。その間は相変わらず、叔母の家、おばあちゃんの家を
姉と二人、荷物を持ってウロウロと、交代させられて育った。殆んどは従妹の意地悪で、
そんな結果になるのだが、慣れて来るとその生活も面白く新鮮な気分になっていた。
おばあちゃんの活動写真を観に行った日は、おじいちゃんと二人であらすじを、聞くのが
面白くなっていたし、叔母の家では、人形つくりが楽しかったし、編み物や縫い物は、
殆んど叔母が教えてくれたし、毬入れも毛糸で編んで創れたのもこの頃に出来ていた。
人形は、家族人形を、外人風で作ったのを見て、叔母達を驚かせたみたいだった。
卒業式の日、大好きな先生、毛利先生との別れが一番辛かった。
私の一番の理解者と思っていたので<もうこれからは誰も分かってくれない>
そんな想いが、こみ上げて、号泣していた。先生は最後の給食の牛乳(脱脂粉乳)を、
大きなヤカンで、一人づつに注いでくれ、ひとりひとりに「~~さんは絵が上手やったな
また見せにきてや」「きみは、算数が得意やったから、これからもがんばって」
「~君は、走るのがすごかったな、クラブ活動も陸上が良いかもナ」とか、泣きながら声をかけて、
私には「なんでも、きっちりしていたな、壁新聞も一年間、毎日変えていてすごいことやで」と。
この言葉はその後の私に、何かの折に励みになっていたように思う。
いつもは残す美味しくはなかった牛乳を、涙でぐちゃぐちゃになりながらぐっと、飲み干した。
卒業式であんなに泣いたのは、その後にはない。6年間のすべてが、今につながっていると、
強く思うことがある。その頃の考え方と今が、あまり変ってなく、6年生で止まっていると思うのだ。
たった6年間、子供なのにいっぱいの出来事や大人たち、大人の複雑な関係や、裏腹な言葉、
やさしさやいじわる、目が見えないおじいちゃんが創る庭、隠れて飲むおじいちゃんのお酒、
家具に張られた白い紙、母との別れ、父の愛人、梅田の紙芝居や怪しい大人たち、
戦後の京橋あたりの焼け跡、お米を借りに行かされた恥ずかしさ、人へのいろんな差別、
たまに食べるご馳走、気遣いがいる友達関係、行商に来るおじちゃんたち、おしっこ臭い映画館、
こうした一杯の事柄が、私をとりまいていた。今の私にあるのだと、感じる。
ただ、くるくる天然パーマだった毛利先生に、その後、会いに行かなかったことは、悔やまれる。