私達世代の、小学時代は、今とは比べものにならない位、マンモス校だった。
一クラスは45人で6クラスあり、中学校になると10クラスもあった。
クラスが2年間もちあがり、5,6年生はそのままで、担任の先生も変らなかった。
先生と呼んだ人で、一番好きだった毛利先生は優しく、人柄も、ひとり、ひとりに目くばりをしてくれていた。
一度、私は音楽の時間に、人気者の女の子に音程が少し違うのを指摘した。
それが原因でクラスの中で一人にされ、誰も声をかけてくれず、遊び時間も一人でいる状態になった。
まったく 今だと 苛めに繋がる状態だったのだ。
その事にいち早く気づき、話し合いを持ち、解決するように進めてくれたのが毛利先生だった。
なにか問題が起こると必ず、話し合うことに心がけて、皆が納得がいくまで話をさせる。
どうしょうもなく、まとまらない時には、少しヒント的なアドバイスを出す。
決して結論じみた口出しはしょうとしなかった先生だった。
民主教育の始まりで、生徒達はその影響を受けていた。その事は成人してから、大きかったと思う。
クラスの中で、余り目立たないが、いろんな事が、人より秀でている男の子がいた。
<神は二物を与えず>と言うが<そんな事はない>というのをこの頃から、私は充分に感じていた。
その子の名は<市川くん>。二物どころか全てを持ちそなえていた。
勉強もいつも一番か2番、特に図工は誰も勝ち目はなかった。とびぬけていた。
まぁ、男前、背も高い方、家は材木屋で、秋田犬を飼っているような金持ち、いつもさっぱりとした服を着ていた。
そんな市川くんを見ていて、<なんでこんなに全てそろっているんや!世の中は不公平や!>と思っていた。
ある時、廊下の隅で市川くんがクスンクスンと泣いていた。
全てを持ち供えている彼は、ただただ、残念な事に、<泣き虫>だったのだ。
そんな彼を見て、つい私は意地悪したくなったのか、「また、泣いてんのんか!よう泣くな!」と言ってしまった。
授業が始まったが泣き止まない。席は私の隣だ。先生が「市川!なんで泣いている?~さんは知ってるか?」と、
私に聞かれた。「知りません」とすまして言ったら、隣で泣きながら市川くんが「お前がまた、泣いてるいうたから・・」と
いうのだ。その前から泣いていたくせに!。机の下から、市川の足を踏みながら「私は知りません」ときっぱりと言った。
ますます泣いていたが、授業は始まった。それ以来、市川と話すことはなかった。
ただ、おばのところの犬、<りっぱな雑種犬>を散歩する時、必ず秋田犬の家の前を通る。
なんとなく惨めな気持ちにはなっていた。我が雑種犬もしっぽをさげて、哀れな感じだった。
その後、風のうわさで市川が東大に行ったと聞いたとき、<行かせたのは私やで>と、友達に面白おかしく話した。
私に足を踏まれ、泣き虫と言われたくやしさから市川は東大を目指したのだと、酒の肴にして話していた。
泣き虫市川じいさんは?いづこに?話してみたいものだし、また、泣かせてみたいものだ。 悪!ってか!