梶田 真章さんの言葉

法然院貫主 梶田さんのことばで、最近、何かもやもやしていた事が、納得出来きた。

震災後に流れているAC機構の押し付けがましい広告が嫌な感じだった。金子みすずさんの

詩なども使われているのだが、あの、アニメを使った「おはよう』「こんにちわ」「おやすみなさい」

これが、どうも生理的に受け付けない。そんな中、先日訪れた法然院で、見つけた。

貫主、梶田さんが中日新聞に書かれている、人生のページでの話し。

梶田さんは京都の高校に「こころの健康」と言う題で話されている。挨拶のはなし。

            < 伝えてゆきたいこと>

「挨拶」は元々「問答を交わして相手の悟りの深浅を試みること」であり、真剣に向き合い、相手の境地を

探ることを意味した。

私の一日は本堂で一切の生きとし生けるものを悟らせようとの本願を立てて、極楽を構えて下さっている

阿弥陀仏と私を支える一切の生きとし生きるものとの御縁に対する感謝の祈りで始まる。

広い意味での挨拶と言えよう。転じて日常的な挨拶の意味を考えてみると、「おはようございます」は

「はやくからご苦労さまです」との労わりの言葉、「こんにちわ」「こんばんは」は、その後に時候や

ご機嫌伺いを省略した言葉、「いただきます」は、今から食べる米・野菜・魚や肉のいのち、または生産者や

料理人への謝罪や感謝のことば、「ごちそうさま」は「馳走」、つまり、走り回って私のために食材を集めて

下さった方々に対する御礼の言葉、「おやすみなさい」は今日のご縁による仕事を全うした相手に対して、

「そろそろお休み下さい」との労いの言葉であると言えるだろう。つまり「グットモーニング」「グットナイト」

などと違い、常に相手に対する感謝、労わり、思いやりを込めたものであり、相手に対して敵意が無いことを

示す以上の物である事を伝えてゆきたい。更に、気になるのが日本語の中で「おかげさま」と並ぶ最も

美しい言葉の一つである「ありがとう」の昨今の使われ方である。

この言葉は「めったに無い事をしてくださってあり難いことだ」と、相手との尊き御縁を感謝して心を込めて

発せられて来た筈である。昔は「ままならない」のが人生であり、自分の思い通りの結果になったのは、

善き因縁が整った有難いことであると受け止められていたが、便利な暮らしを亨受するようになった現代では、

人生は意のままになるもので、相手にしてもらって当たり前という感覚が強く、折角の「ありがとう」が

軽い気持ちで口にされる事が多くなっているのは残念なことである。

日本特有の挨拶である「さようなら」は「然様ならば、別れましょう」の略で、御縁によって仲間としては共に

過ごした貴重な時間が終わり、次の御縁による各々の仕事への移るときに気持ちの区切りを付ける言葉である。

したがって万感の思いを込めてこの言葉で呼びかけるのが、身近な人がこの世から旅立たれる際ということになる。

「本当にお疲れ様でてした。さようなら」と。

高度経済成長以降、仲間ではなく他人に囲まれて暮らす社会になってしまった日本だが、仲間意識を

取り戻すために、相手を気遣う挨拶を心から交わせる社会を再構築してゆきたく思う。年配者は人生で

悟ってこられた知恵を子や孫に躊躇せずに自信を持って伝えていただきたい。

伝える努力をしない限り、挨拶の意味という簡単なことも伝わってゆかない。

有難い御縁により生きとし生けるものに支えられていることを感謝しつつ、人との関係を地道に築く

日常的な喜びを大切にして、丁寧に暮らしてゆければと願っている。

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何がすっきりしないで、嫌な感覚を抱いていたかが、この話で、分かった。

いい時に出会えたことに、感謝!

良い年のおばばは、孫に伝えてゆかねばならぬわい!これが仕事だわさ!

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