1972年6月17日佐藤首相は退陣の所信表明の記者会見で、
新聞は偏向しているから相手にしない、テレビだけでやる」と
感情むき出しで興奮、記者退場後の独演会となった。
最後の会見が、とんだお笑い草。
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なんとなく今の政権と似ていると思うのです。
世論無視で、先日の世論調査でも、原発再稼動は反対が上回っていたし、
沖縄辺野古の移設問題も反対が多く占めあていたし、集団的自衛権も、
反対が上回ったいた。ただ自民党の支持率は、相変わらず下らないので、
今の内にあらゆる手を使って強行にすすめているのだ。
1972年・下記の記事一部を打ち込みました。
まったく、今ある事と同じだと、うなずくばかりです。!
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余りにも長すぎた佐藤政権は、ようやくその幕をとじた。
内政も外交も行き詰まったといわれ、あきられての退場である。
保守政治の本流と言う点から見れば、やるべきことは一応に
やりとげて、ほぼその任務をはたし、役目をすませた上での
次の有力選手にバトンを渡したといってよいであろう。
引き際がどうのこうの、引退の花道がこうの、と言う議論は、
「政治」の本質からは離れたものであるかもしれない。
佐藤政治に対する悪評はいくらでもある。
その官僚臭、有言不実行、平然たる食言、タカ派復古派的な言行、
政界の黒い霧など、いわばその体質的な欠点は少なくない。
これは不人気の原因であった。だが、こういう政治的体質であったために
多くの仕事を強引に、あるいは巧妙にやるこできたのでもあった。
佐藤内閣は多くの重要問題を手がけ、それなりにやり遂げて来た事は
認めなければならない。佐藤内閣は無為無策であったと評されるが
はたしてそうであろうか。
無為無策どころか多くの「業績」を誇ることができるのだ。
組閣からの一年間に、米国の北爆支持を声明し、農地報賞法を成立させ、
沖縄を戦後の首相として初訪問し、日韓条約を野党の反対を押し切って
強行可決している。無為無策どころではない。
<この時の自民党の絶対多数勢力こそが、かずかずの「業績」を可能にしたのだ。>
政権を投げ出す最後の瞬間にイタチの最後っぺのようにかずかずの値上げを
置きみやげにしたのも、無為無策でない証拠である。
「業績」を誇る佐藤氏が国民の間の不人気と言う理由で、保守本流そのものから
利用価値はなくなったと追放される日が来た。
かわって「庶民性」を看板に田中首相が登場する。「無為無策」から「決断と実行」
へと、化粧も衣裳もかわったが、芝居そのもの、政治そのものは変わったのであろうか。
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