吉川裕子さんの講演

OSK201110170072

友人から吉川さんの事を教えて貰っていて、話を聞きたいと思っていたのが

やっと実現出来た。友人3人と出かける。

一部は、東北に伝わる民話の語り、2部で浪江町から(福島原発から7キロ)

大阪に避難されてきた話。

避難されてきた話では、今迄に知り得なかった現実の厳しい話、驚きと同時に

怒りがこみ上げて来る。そんな話を時々笑いを誘うようにされて、

心の深さ大きさに接する事が出来た。

「寝ることがなかなか出来なくて2年8ヶ月過ぎて、淋しくて淋しくて、

生まれた所、友達、親戚、家、全てを失って、ふるさとに帰れない事を思うと涙が出て出て、

ゆうべも眠れなかった」と最初と最後にも言われていた。そして「みなさん、がんばって!とは言わないで下さい。

一緒にがんばりましょう!と言ってください。」と。

その日のニュースで、避難者の全員帰還をあきらめざるを得ないと出た。

以下ニュースと、以前の取り組みの話を記載させてもらう。

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福島原発事故:避難区域の再編完了 11市町

毎日新聞 2013年08月08日 00時31分(最終更新 08月08日 01時07分)

東京電力福島第1原発事故に伴う福島県内11市町村の避難区域再編で、最後まで残っていた川俣町山木屋地区の計画的避難区域が8日午前0時、避難指示解除準備と居住制限の両区域に再編された。

帰還時期の目安を示す区域再編を国は帰還の前提と位置づけて進めてきた。だが、5年以上戻れない帰還困難区域を中心に

除染や賠償手続きなどの遅れから、帰郷を諦める住民も増えつつある。

再編は2012年4月1日の田村市と川内村を皮切りに、国と合意できた市町村から順に実施。避難区域に住んでいた約8万4000人の再編後の内訳は▽帰還困難区域約2万5280人▽居住制限区域約2万4620人▽避難指示解除準備区域約3万4000人。

山木屋地区の全11行政区(人口約1200人)のうち、1行政区が居住制限区域(約130人)、

0行政区が避難指示解除準備区域(約1070人)に再編された。【深津誠】

◇避難指示解除、見通し立たず

政府は避難区域の再編完了を受け、除染やインフラ復旧など帰還に向けた環境整備を急ぐ。

避難指示をいつ解除するかは、除染の進捗(しんちょく)状況や、汚染土壌の「中間貯蔵施設」を設置できるかどうかなどに左右される。

「現状で具体的なめどはない」(原子力災害対策本部事務局)のが実情だ。安倍晋三首相は7日、同本部で「除染、中間貯蔵は重要課題。

加速化のための態勢強化を行う」と強調した。

政府は当初、2012年3月の再編完了を目指していたが、地元住民から「健康への影響はないのか」「商店などが戻らなければ生活できない」と不安が噴出したことから、自治体との合意形成を重視しながら手続きを進めてきた。

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関西で福島弁で語るフクシマ 避難の吉川さんに依頼次々

東京電力福島第一原発事故で家を追われた福島県浪江町の民話の語り部、吉川裕子さん(61)が、避難先の関西で事故の体験を語り続けている。「おっかねくて寒いし、どこに逃げたらいいかわかんねかった。すぐ戻れると思ってたのに――」。ふるさとへいつ戻れるかはわからない。でも心のふるさとは失いたくないと、福島弁で語り続ける。

吉川さんは10年ほど前から福島の学校や福祉施設で地元の民話を語ってきた。自宅は福島第一原発から7キロ北。東日本大震災で津波の被害は免れたものの、直後の原発事故で一帯は立ち入り禁止の警戒区域になり、大阪市に住む娘の勧めで堺市の公営住宅に夫と身を寄せた。後になって、多くの友人らが津波の犠牲になったと知らされた。

堺市で4月、復興支援イベントに誘われ事故の体験を語った。これを機に各地から依頼が相次ぎ、関西での証言は30件を超す。

9月末は滋賀県長浜市にいた。白足袋、もんぺ姿で事故直後の心境を語った。

「知り合いが真っ黒になり顔半分だけで見つかったと次々連絡が来る。夜になると『助けて』と声が聞こえて眠れなかった」。約270人の参加者からすすり泣きが漏れた。「悲しみが痛いほど伝わってきた」。主催した高月地区社会福祉協議会の七里藤吾(しちり・とうご)会長(68)は言う。

吉川さんが証言を続けるのは、ふるさとの苦悩を少しでも知ってほしいからだ。堺に来た直後は周囲に知人もおらず、不安だった。でも近所のお年寄りの女性があり合わせの物資を届けてくれて心が温まった。ふるさとを失うことは、生きがいを失うこと。だからこそ、被災者のことを忘れず支援を続けてほしい。

吉川さんが被災体験とともに語るのが、「歯形(はがた)の栗」という浪江町の民話だ。

重病の少女が、大好きな栗をかじったのを最後に亡くなる。その後、少女の墓から栗の木が伸び、歯形の付いた実がなった。浪江町の墓地に立つ栗の木がそれと伝えられる。吉川さんはこの木が好きで、震災前、民話を語る前には足を運び「今日も話してくっから」と手を合わせていた。

だが9月21日、半年ぶりに一時帰宅すると、自宅の周りは雑草に覆われ、人の姿は皆無。震災で壊れたままの近所の家が風雨にたたきつけられる音だけが響いていた。「もう戻れないかも」。時間制限があり、栗の木を見に行くこともできなかった。去り際、あまりに一変したふるさとの姿に涙があふれた。

でも、気持ちを奮い立たせて再び「歯形の栗」を語った。「誰も見ていなくても、栗の木は今ごろ、たくさんの実をつけていっぺなー」。少女から受け継がれた生命の強さが、今の心の支えだ。

「心のふるさとを失わず、いつか帰ろうとみんなで助け合えば、何とかなっぺー」(阪田隼人)

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