N君とテニスと私・・2

50歳でテニスを始め気付いた事が。それまで私は習い事をしたことがなかった事。

幼い頃、そろばん、踊り、ピアノなど、本当は習いたかったが、家の事情でそれを、

許してくれる訳がなく、何も習った事がなかったし、言い出せなかった。

しかし、習う事もなく人間50歳までには、洋裁や和裁や編み物、料理などは、

その気になれば、やってこれていたので、何も苦労がなかった。

しかし、スポーツは違う。クラブ活動でするのとはまた違ったものだった。

テニスをN君に教わり、物事を教わると<こんなにも素直な自分がいたなんて>っと、

そんな自分に感動すら覚え、ますます熱心になり、上達したくてスクールにも行く始末。

スクールは、もちろん基礎のラケットの握り方から、素振りから、足の運び方などから、

みっちりと2時間良い汗をかかせてくれた。2年位すると中級の上までに上達し、

2軒のスクールにも通う。それぞれのコーチにより指導の仕方が違うので面白みが増す。

それと直ぐに店のテニスクラブも結成し、N君コーチ指導の下で、土、日もテニス。

N君は、本当に店では、<超常連>で、毎日カウンターにいて、閉店まで座っていた。

大学卒業と同時に東京から枚方の寮に来た。先輩に連れて来られたのが最初だ。

大手電気メーカーの寮があり、店は<寮生の食堂>と、ご近所の店仲間に言われる始末。

そんなには、皆お金もなかったのだろうけど、仲間がいると何も飲まず食わず注文もせず、

カウンターで話し込んで帰る「族」もいた。後で聞くとその彼の家は結構裕福な家との事、

おボンボンだからこんな事を平気で出来るのだと思った。なんだか政治家とだぶりますな。

こんな事を許す店だから、そりゃ人気があって当然なんだが人気があっても儲かりはせず、

それを19年間続けられたのが、不思議な位。馬鹿としか言いようがない。

「銭湯の帰りにふっと洗面器を持って立ち寄る食堂のおばさんがしたい」と昔よく言ってた。

それに近い<夢>を実現していたという事なる。誰のせいでもなく己が選んだ道だったのだ。

で、Nくんは初めは目立たない存在だったが、なんとなく日曜日に何かのイベントなどに、

くっ付いて来て、夜だけでなく昼も私や店の女の子などといる機会が多くなった。

そんな頃、店の子の一人と付き合いだしたのだ。そこから急に店で目立つ存在となった。

寮には殆ど帰らず、その内転勤になり、彼の家も裕福で京都にマンションがあり、

そこから会社に行き、京都から店に、平日は時々で週末には必ず来るという生活ぶりになった。

男性にも、女性からも好かれる性格だったが、それ故に、女性問題はややこしい事もしばしば、

私からの説教を食らう事も多かった。憎めないところもあり女性達もいつの間にか許していた。

本当は一番、優柔不断で変な優しさは女性たちを余計苦しめ罪になる、たちが悪い事なんだと。

こんな男性が多いですがね。今は女性がしっかりでそんな事を簡単に許すような事は少ないか。

背は高い、女性が見た目で判断せず付き合う代表的なタイプだったかな。褒めているのかな?

劇団の稽古帰りに私と一緒に飲む事もあった。京都で常連になっている店でも可愛がられてた。

音楽や映画の情報も長けていたので、枚方の町新聞にシネマの欄に投稿してくれていた。

(娘がその頃勤めていたので)何故か「ジョージN」のペンネームで・・・笑ったが。

19年間のうち15年近く、息子のように店に帰ってくる子となっていた。

何人かの女性と浮名をならし、テニスをし、映画を楽しみ、さほどの苦労も無く呑気な彼が、

最後に選んだ女性と、後、一週間で結婚と言う時、突然、彼女と交通事故で亡くなった!。

その時から、彼の思い出話は出来ても、彼の名前を、文字にする事は出来なかった。

享年36歳。

あれから、13年が経った。もう直ぐ命日になる。

『N君!貴方が居なくなるひと月ほど前、貴方が大切にしていた愛用のラケットを

私に、突然くれたのはなんだったのですか?未だに不思議でなりません。

でも、いっぱいの思い出と、テニスを!ありがとう!そのうちラケットを持って行くわ』

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