1955・黒澤監督・「生きものの記録」

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都内に鋳物工場を経営しかなりの財産を持つ中島喜一は、妻とよとの間に、よし、一郎、二郎、すえの二男二女がある、ほか二人の妾とその子供、それにもう一人の妾腹の子の月々の面倒までみている。その喜一は原水爆弾とその放射能に対して被害妾想に陥り、地球上で安全な土地はもはや南米しかないとして近親者全員のブラジル移住を計画、全財産を抛ってもそれを断行しようとしていた。

黒澤明『生きものの記録』。
『生きる』『七人の侍』と連続して大ヒットを飛ばした黒澤明が、その勢いに乗じて制作したものの大失敗に終ったという記録がある。失敗の原因は「原子爆弾」という思いテーマのせいだろうといわれたが、前年に公開された『ゴジラ』(第一作)は同じ原水爆をテーマでありながら大ヒットした。しかし、『ゴジラ』は反核映画としてではなく娯楽映画として受け取られ、やがてゴジラは子どもたちのアイドルとして原水爆とはまったく乖離した姿に変貌してしまう。
当時35歳の三船敏郎が、この映画で70歳の老人を見事に演じ評判になった。

この映画は、核兵器の危険を実感しない、あるいは危険を知らされていない人々が、命よりも財産(カネ)を大事にする物語である。この映画の公開から60年近くがたつが、この世界に住む人間たちの基本的な考え方はちっとも変わっていないことに気づかされる。
放送では最後に岩井俊二監督の言葉がテロップで流れる。
「のどもと過ぎれば熱さ忘れる」

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最近、<ひかりテレビ>日本映画専門チャンネルで、原発の関連映画が放映される。

「生きものの記録」は、1955年の製作で、「7人の侍」を撮ったあくる年だ。

黒澤監督が、こんなにも原爆・水爆に脅威を感じていたことを始めて知る。

岩井俊二監督も話していたがこの時代の方がいろんな意味で規制がなく、自由に、

表現出来ていたように思うと。

この「生きものの記録」は3・11があったから、台詞の敏感さとかを感じるのだが、

そうでなかったら、少し変な映画を作ったとしか受け止めて貰えなかっただろう。

「アメリカでも、ソ連でも、ハワイでも、どこで水爆実験があったとしても、気流の関係で、

みんな日本に流れてくるのだ。」と言う台詞がある。これは「おれたちも死の海にいた」

という、ドキメンタリーで、最近になって、アメリカが出したスピーディーで発表されていた。

最後に主人公が精神病棟で、夕日を見ながら「地球が燃えとる」というのが、

印象的だ。

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<26日には、鎌仲監督の「ヒバクシャ」が、放映される。ひかりTV 日本映画専門チャンネル。>

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