チェルノブイリのこどもたち・・

放射能に汚染された大地に日が沈む。

窓をふさがれた有刺鉄線の我が家。

もう10年以上前に、ヒバクシャ救援関西の人たちでポストカードにされた絵です。
 <鳥の帰るねぐらはあるのか・・・>
 <我が家にはもう帰れない・・・ナプリーナ・エレーナ 13歳>
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 <新しい町で私はチェルノブイリ人と呼ばれた>           B.グリシャノヴィッチ
 ”チェルノブイリ”なんと恐ろしくいやな言葉でしょう。!小さかった時に、私はしょっちゅう、この言葉を耳にしました。
それに「放射能」「黒死病」「ストロンチュウム」といった言葉も聞きました。私はその頃何も知りませんでしたが、
今ではこれらの言葉を聞くといやな気分になります。たぶんそれはお母さんやおばあちゃんが、そういった言葉を
聞いて悲しみに沈むようになったり、目に涙を浮かべたりしたからかもしれません。
 あの後私達は町を立ち退いて、ヴィテブスク地区に向かいました。私達の他にもう一組の家族も一緒でした。
 新しい町で私と妹は幼稚園に通って、それから小学校に入りました。この町でもまた「チェルノブイリ」「チェルノブイリ人」
という言葉を耳にしました。私と妹、そして私達といっしょに引越してきたマリーナとナターシャはこんな風に呼ばれて
いました。私は泣きながら家に帰ったのを覚えています。私には「チェルノブイリ人」という言い方がものすごく悔しい
腹立たしくてたまりませんでした。お母さんもこの事を知ってしばらく悲しんでいました。そして私を落ち着かせると
チェルノブイリの事故やその被害のことを話してくれました。しかし何より私の気持ちを穏やかにしてくれたのは、
お母さんの言葉です。「あの子たちに腹を立てたらだめよ。あの子達も私達と同じ チェルノブイリ人なの。ただまだ
小さすぎてそれが分かってないのよ。」私自身小さかったので、お母さんの言葉をちゃんと理解できませんでした。
そして、今はもう3才ではありません。13才になってこの不幸がこの苦痛がどのようなものかが分かるようになり
ました。チェノブイリの人々にとってどんなに辛かったでしょう。自分達の家、愛する土地、生まれ育った町、知り合いや
親戚の人たちを残して行く事は。全ての人が簡単に新しい土地に移ったのではありません。
チェルノブイリの悲劇からすでに10年が経ちました。けれども、人々はかって住んでた家やおふろ、菜園、故郷の
小径、林を今も夢に見ているのです。そして町全体に人の背丈ほどのイラクサやヨモギが生い茂っていること、
家々が崩れかけて窓が壊されていることを受け入れたくないのです。安心して町を歩きまわっているのは野生の
動物だけですが、数多くの村が埋められ、家があった場所には巨大な砂のお墓がたくさんできました。
年々私達は成長しています。それにつれて、学校、先生方、両親、そして祖国への責任を感じています。
私達が大人になった時には、人間の運命、みらいの子供達、私達のベラルーシの将来に対する全ての責任が
若い私達の肩にかかってくるでしょう。私達は全てに対して責任を取るために、多くの知恵と能力が必要です。
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事故から3才だった子供が10年後に書いた作文です。

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