その昔、ある小さな村で「おったん」と呼ばれいたおなごがおった。
体はほんに小さいのだが、なかなかのおっさんぶりで村では評判であった。
おっさんと呼ぶには、まあ一応はおなごなのだから、せめてもの情けじゃと、
村の長なるばばが「おったん」と呼ぶことすると言った。
村の衆はみなそれに従いおなごを「おったん」と呼ぶ事にした。
する事なす事それはそれはおなごとは思えぬ男顔負けの勢いじゃった。
西に火事だと聞けばすわっ!と駆け出し、東に病人が出たと聞けば背中に背負って、
養生所の<仁先生>ところへ連れて行くという早業。
ばばの口いれ(人材派遣)で芝居小屋で明かりを役者に照らす仕事をなりわいと
しておった。
帰りにはお神酒を一杯、これを楽しみに、ばばの小料理屋でのれんを終うまで、
うだうだと言い、ゲラゲラと笑い飲んでおった。
そんなある日、いつものように飲んでは雪隠(せっちん)に行きもどりを、
繰り返しておったが、「わあ~~、おとしてしもうた~~」と慌てて雪隠より
飛び出してきた。
さすがの「おったん」でも雪隠ではおなごのところで用を足すのだが、
どうやら股引(ももひき)の後ろの方に、大事な西洋の本を挟んでおったそうな。
その頃に西洋の本なぞを読むなどとはなかなか出来る物ではなかったのじゃ!
「おったん」はその辺りが凄みのあるところであったのじゃ。一目をおく者もいた。
雪隠はもちろん、汲み取り屋の手を煩わすのは当たり前で、それなりの駄賃を払い、
それとは別にご祝儀を包まなければならなかった。
洋行かえりの男から手に入れたという西洋の「白鯨」と言う本だったらしい。
物知りばばもその辺は全くだったため、ふん!と、鼻で冷たくあしらっていた。
わしらにゃ~訳の分からぬ小難しい本を読んでござったらしい。
それも上と下があり、なかなかの分厚さの類らしかった。
ここからはやや面倒になって来たゆえ、「おったん」自身の回顧の一部を普通に・・。
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暑い夏のこと、無残に打ち上げられたエイハヴ船長。その亡骸はいかにも水死らしく、
何倍にも膨れ上がり、色もどす黒い色に変色し、所斑に海草がへばりつくかのごとく
ぺたぺたと異物がくっついている。彼が暗い闇の中に飛び込んだのをしっていたのは
私だけだった。
いずれ遅かれ早かれ数日後には数人の見知らぬ男達の手により引き上げられる。
片足を失った哀れなエイハヴとモービーディック。
し、しかし、ここのばばには告げなければ・・口が渇くカラカラだ。立ちくらみも・・。
勇気をだし「あのーす、すいまへん。落しまして、下巻を!メルヴィルの白鯨・下巻を」
所謂、職業がらGパンの後ろのポケットに入れておりやして、面目ない!
数日後、予想通りの展開に。見知らぬ男達により、引き上げられたモ-ビーディックは
獰猛で狡知に長けた白鯨から哀れな茶鯨へと変色し片足を失いそれ以上失うものは無いと
語るがごとく聖書のように膨れ上がり汲み取り口の横にもの悲しく置き去られていた。
長のばばが冷たく「白鯨、引き上げられたよ。」と告げた。きゅっと一杯引っかけて、
裏口へもちろエイハヴ船長の弔いの為に。しかしくさい。とにかくくさいのひとこと。
あまりの悲惨さにその場を離れ本屋に入り、メルヴィルの白鯨下巻を買ってしまった。
自身の中におったんの血が流れていたとは気付く余地もなく。
ーーーーーーーーーと。
その後、村では「おったんと白鯨」なるものの話は幾代にも語り継げられて行ったとさ。
解説
雪隠(せっちん)厠(かわや)
汲み取り、ご不浄(ごふじょう)
いろいろござるが要するにぼっとん便所。