随分と長い間連絡を取っていなかった友人が、いわき市平原に住んでいた。
テレビにその辺りが映し出された時、一度その家行った事があり、細かくその時の風景が
思い出された。太平洋の近くで、何処までも広い広い平野が、広がっていた、のどかな村だった。
「地平線が凄いだろ!。」と。自慢げに言っていたのを、思い出す。
家に私が着いたとたん、村にすぐ、広がり「大坂から、女の人が来ている。だれや?」と噂が広がっていた。
その時の印象で、「村が家族やね。そう考えると国は、その村の集まりやな。全体が家族やで」と話したのを
思い出す。あの村が、映し出されたのか?こちらからこんな時連絡するのは、迷惑だと思い迷っていたが、
共通の友人に、連絡を取って貰った。昨日、無事が確認され、「電話をしてやると、喜ぶよ」と聞いて直接話す。
「無事は無事だが、原発の20キロぎりぎりの所で、中学生の娘を、親戚の広島に預けた。自分は寝たきりの
父親を抱えどうしょうもない。親戚なども近くなので、今日まで皆で相談したり寄り添ってきたが、いよいよと
なれば、ここを離れ、個々の自立を、しなければならないと話し合った」と。
「そうなった時は、もう二度とこの場所に戻ることはない時だと考えている。」「今、出来る事はない?」と聞いたら、
「今はない。ここを離れた時、家族は広島とか、父親は安心できる施設などに預けようと考えている。
自分は単身でも仕事をして行こうと思っている。そんな時に仕事などの相談しなければならないとき、力を借りるかも。」
「何をすればと・・、思っている人たちがいっぱいいるからね。」「ぼく達も、いっしょだよ。何をしたら良いかと思っている。」
そんな中でも、昔、一緒に新鮮なイカを買いに行った話などを、彼が「あの波止場はもうないよ。全滅した。イカのトンビが
食べたいと言っていたなと、思い出していた。」と話す彼の笑う声に安心した。「本当に何か力になれることがあれば
言って、もうすっかりおばばになったけど、いろんな人に発信する事は出来るから。」「うん、ありがとう。声が聞けて
うれしかったよ。」と、彼の声が力強かった。私達がテレビを観たり、新聞を見たりして、涙している場合じゃないと
思った。力を蓄えて、知恵をしぼり、人とつながっていようと。