放射能から子どもたちを守る福島ネットワーク中手聖一さんの話

震災から1年、子ども福島ネットの情報誌「たんがら」から・・・

・・・・・原発=二度と原発事故を起こさない社会  中手聖一・・・・
「脱原発」、それは私たち福島人にとってエネルギー問題などではありません。二度と原発事故を起こさない社会にすることです。
すべての原発を今すぐ永久停止にしなければなりません。すべての原発を今すぐ永久停止にしなければなりません。私たちが体験した、そして今も続いている、恐怖と苦悩、悫しみと嘆き。こんな愚行を繰り返さない社会を子供たちに引き渡すこと。それが脱原発だと私は考えています。
その前に私たち福島人にはすることがあります。目の前の命、子どもたちを守ることです。避難・除染・防護、できることは何でもしよう、そんな思いの一年でした。昨年三月末、私は妻と子どもたちを岡山県の親戚宅に避難(退避)させました。「早くてよかったね」と言ってくださる方もいますが、放射能の充満する福島市に二週間も留めてしまったことを、どれほど後悔したかわかりません。
四月、福島全土の汚染状況が明らかになり、避難の長期化(疎開)を私たち夫婦は覚悟しました。親戚宅の疎開に限界があることは初めから分かっていましたが、最長でも一年間と決めて、その間に将来のことを考えようと励ましあいました。

 夏、たくさんの親子が県外に避難し始めました。今にして思えば大騒ぎの避難でした。職場でも、スーパーでも、飲食店でも「避難」の言葉が耳に入ってきました。ようやく自治体が除染を始めました。しかしそれは、子どもたちを守るためではなく、住民流出を食い止めるために。効果が薄いことはすぐに明らかになりました。そして廃棄物問題で頓挫。「やる前から分かっていた」と詳しい方は言いますが、一抹の期待をしていた自分に気付かされました。

秋、気味の悪い静けさが世間を被い始めました。「避難」の言葉は聞かれなくなりました。まるでタブーであるかのように……「もう避難する人はいないのでは?」、仲間たちの呟きに胸が苦しくなりました。しかし放射能は、お構いなしに動き続けていました。お米の深刻な汚染が発覚しました。暫定基準以下でも危険なことは分かっていましたが、一キロ一○○○ベクレル超の測定値には、自分の考えの甘さを悟らざるを得ませんでした。母の住む大波地区で最初に発覚したのもショックでした。母もお米を作っていました。私の住む渡利地区で、下がっていくはずの放射線量が逆に上がっている場所が多く見つかるようになりました。風雨と共に放射能は、山から田畑や宅地へと降りてきていることが分かりました。ドイツから来た市民の方に、「チェルノブイリのときと同じです」と教えられました。

冬、私たち家族にも決断の時が迫りました。「移住」の言葉はとても重く、夫婦の話し合いはその度に途切れざるを得ませんでした。それでも私たちが移住を決断できたのは、子どもたちがいたからだと思います。被曝者として生きる定めを負った、私たち「福島人」。未来の希望を創り出せるのは子どもたちです。自ら誇りを持って福島人と名乗れる人に育てること、それが私たち夫婦の役目だと話し合いました。限られた選択肢の中で、私たちは移住を選びました。迷いの中からようやく抜け出し、この春に札幌へ移住します。

事故からまもなく一年、二度目の春が近づいています。私の周りや職場で、ぽつりぽつりと退職(移住)者の話題が増えてきました。大半は三月末の予定者です。引越業者は売り手市場。年度末はとても手が届かず、私も荷物を早めに送ることになりました。

もう何十年分もの涙を流しきった私に、原発について改めて考えることなど何もありません。すべての原発を止めることは、子どもたちを守ること、家族を守ること、仲間を守ること、故郷を守ること、そしてもう一度すべて、当たり前の姿に作り直すことです。

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