御昼の食事を済ませ法然院へ・東日本大震災と薄茶を頂く。
5月2日から6日まで、いろんな催しが行われその収益は、
被災者の方々に届けられる。
山藤が風に揺れ優雅に迎え入れてくれた。
<在釜でのお席での言葉・ご紹介>
本日のお席についてのご案内より・・・。(新居万太)
喜びも悲しみも人の都合、毎年3月になれば桃の花は咲くのです。
天然自然の只中で、人の存在は何と小さきものでありませう。
点前座の景色は、まるで盛夏の茶会のやうでもありますが、ミもフタもなく、あの震災の記憶。
荒波、磯、波打ち寄せる渚、青く深い海の色。
「恵み」と「脅威」のはざまで生かされている人間もまた「自然」の一部でしかありませんでした。
「自然」と対峙して人間が在る訳ではないのです。
龍が雲の中を昇って行く図が鋳出されている釜と風炉は、「海」の近くに置かれることに依って、
かっては「人間の叡智と希望」象徴でもあった「原子力発電所」を想起させます。
それは結局、巨大な湯沸器に過ぎませんでした。原爆で湯を沸かし、その蒸気でタービンを回して、
電気を起こし、起きた電気でまた湯を沸かしているのが現代の我々の「生活」であります。
それに比べ、穏やかに熾る炭の火に釜を掛け、湯を沸かしていることは何と効率の良い事ではありませんか。
少しく直裁な道組みに辟易されたのかも知れません。お許しください。忘却。
人は馴れ、忘れる生き物なのです。一人一人の時間の流れは決して同じではありません。
時々に、想ひ起こし、また、馳せなければなりません。
それにしても、地上で最も清浄であったはずの、「水」「土」「風(空気)」。
その恵みによって植物が(また人間も)育まれ、やがて木となり、天に向って伸びたその枝の葉先を
頂く「茶」は、また清浄の極みであったはずでした・・・。
清らかなる風が取り戻せます事を。その為の第一歩としての、「足るを知る」を。
震災から4年2ヶ月。寄り添ふ、想ふ、などと軽々に言えない事も、時の移ろいの中で、
思い知りました。震災を想ふことは、否応なく、自分自身について考えることでもあります。
先ず以って自分自身の為に、「悲願会」に参加させて頂くのだと思っています。
粗相な懸釜にて、お目怠く、行き届きませぬこと、どうかお許しくださひますやう。
本日はほんたうにあいがたうございました。
2015年5月3日 法然院・悲願会にて 山猫軒茶の湯研究会一同/新居万太
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悲願会でのお茶会も参加するたびに良い言葉を新居万太さんに教えていただきます。
法然院さんの住職の法話とも、繋がることばでした。
充実した一日を友人たちと過ごせた一日でした。