幼き頃・・3・・・貯金箱を割る父

いろんな事が起こったその年は、私はまだ小学校1年生の終わりであった。

今、我が家に同じ一年生と下の娘の方にも一人いるが、皆、屈託なく過ごしている。

こんなのが普通なんだろう。

しかし私が過ごした小学校時代はいろんな想いをした子供たちが沢山いた。

はっきりとした差別は当たり前の時代だった。

<在日朝鮮人の子供とは遊ぶな>と周りの大人たちが、遊ぶのを禁止していたりした。

私は意に返さず遊んでいたし、よく分からなかった。

私の6年生頃までの経験はその後もすさまじく、記憶の中で「くったくなく」と言うのは、

なかった。いろんな大人達を見てきた私は、6年生のままで今まで止まっている気がする。

物の見方や考え方など、なんという小学生だったかと思うのだが、

その頃に強烈な事がありすぎ、その後は余り印象にないのだ。

あったとしても嫌なことは嫌な事として残り、この頃のように、

嫌な事でも面白かったとして思い出せないのだ。

肉親という関係で大人と暮らしたのが6年生までで、その後は、ほとんど帰らない父と姉と、

お手伝いさんだったりした。

父は何から這い上がったのか、大変な事業の失敗から、2,3年したら、もう景気が良かった。

良くなってから父は再婚する。

小学校時代の祖母や祖父の毎日の出来事が、嫌でもなく可笑しくなつかしいのはなぜだろう。

毎日、毎日、短い間でも過ごした「家」という物だったからかも知れない。

その頃の父のことに戻ると 本当にむちゃな男だったと思う。

人間誰しも同じだろうが、お金がある時と、ない時、はっきりと違う顔があり忘れない。

お金のない時は、普段ほとんど家にいない父が、家にいた。私はうれしかった。

ある時「貯金箱持ってるやろ?もっといで。」「うん」 持って行くといきなり割られた!。

びっくりしている私に「映画いこか?」と笑って言い、すぐに、立ち上がっていた。

私は父と映画に行けることの方がうれしく、にこにこして着いて行き、

貯金箱を割られたことは消えていた。

もともとたいしたお小遣いがあったわけでなく、時折、父が家に帰ると着物に着替え、

ズボンをかけた時に落ちた小銭を、ちょっいと、くすねて、貯めたものだったから、

こちらも良心が痛んでいた訳だから(おあいこ)ということにした。

この時代の男は大体家では着物に着替えていた。良き風習あったと思うし父親という存在が、

その事で、なんとなく威厳があった。

映画館は歩いてすぐのところにあった。どんな映画を観たかは覚えていない。

たぶん、大人の観る映画であったろう。

父が子供の貯金箱を割ってまで、行きたかったんだから。

羽振りの良いときに長屋のような家の前に、見た事もない大きな車に

乗って帰って来たことがある。

まるで(西岸良平)のまんがの世界といっしょで、近所の子供がワラワラと出てきた。

私は鼻たかだかであったと思う。

戦前 戦中 戦後と何で大もうけをし、そしてすべて失ったか知らない。

戦前はともかく、戦中戦後が羽振りが良いのはまともな商売でなく、

戦争により儲けた人間だと思う。

軍需工場を、鶴橋や日本橋でやっていたと後で知る。

その後はきっと、政府の人間と繋がり進駐軍の仕事をしていたのだろう。

その繋がりが切れたときに大きな倒産になったと想像がつく。

若い頃、商売の事を、母の実家、母の父に教わった奉公人で、

その後に、成功し、母方が没落したところを、「おじょうさんを下さい」と

小説のようないきさつで、母と結婚したのである。

母はやはり苦労が耐えられず、また父の姑さんとかの生活は出来ず家を出たのである。

小学2年の私などを残して。父も母も勝手な人間だったと思うが、あの時代に、

人間らしく自分らしく生きたのかも。

自分が年齢を重ねてくると分かるものだし 私自身もそうであったかもと思う。

羽振りの良かった頃の父と怪しいおっちゃん。

けがりまった

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コメント

  1. おおの です。 より:

    はじめて聞く話でした。ののさんのバイタリティは御父さんから来たものなんですね。たくましさを見習わねばとかんじました。

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