法然院・梶田真章さんの話

 毎日、いろんな情報、事故、事件が次々と、起こり、原発の問題も泊原発が再稼動したり、

もう、気持ち的に、ニュースや友人の情報などにも疲れそうになったりする。

そんな時、NHKで法然院の番組をしていた。緑いっぱいの森、池の蛙、鳥、虫 キノコなど、

生きとし生けるものを、いとおしくつつんでいる丁寧な番組だった。気持ちの重いところを救われた。

法然院・ 住職、梶田さんの意志がこの自然を大きく包んでいると思った。

この話にも今、ほっと心に染み入ってくる。

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梶田さんの話。

南無阿弥陀佛。

 本尊阿弥陀如来像の前の須弥壇(しゅみだん)上には二十五輪の木槿(むくげ)が並ぶ季節です。

6月23日の未明に本堂正面向かい側の山の椎の大木(藤が巻き付いておりました)が倒れて周りの樹木も巻き込まれ、

本堂と南書院の間の廻廊の屋根が少し損傷いたしました。

未明の倒木で参拝者に被害が及ばなかったのは不幸中の幸いでございました。

倒れた木の近くにも倒れれば本堂の屋根を損壊させる可能性のある樹木がございましたので、

予防措置として7月中旬に4本の木を伐らせていただきました。

7月27日(水)~30日(土)までは今年も恒例となりました「善気山遊びの寺子屋~お寺でなんかやったはる~」を

開かせていただき、子どもたちと共に大人の方々の笑顔にも出合えた4日間でした。

ご参加、ご支援下さいました皆様方に心より御礼を申し上げます。

いかがお過ごしでいらっしゃいますか? 酷暑の候、お見舞い申し上げます。

 地震や津波による直接の被害は文句を言うべき対象が無く、天災と諦めるより仕方がありませんが、

地震や津波に伴う原子力発電所の事故による放射能汚染や風評被害などは、加害者と思われる批判すべき対象がある以上、

人災として被害者が諦められないのも無理からぬことでしょう。

しかし、受け入れがたい現実でも事実として諦めなければ(明らかに見なければ)、幸せだった過去を振り返られるばかりで、

未来に期待して生きてゆくことは難しいかもしれません。

原子力発電を推進する国と電力会社の政策によって便利な生活を謳歌してきた私どもは、福島県の方々を含め、

ある意味では此度の原子力発電所の事故の加害者であり、また被害者でもあるのだと思います。

現在、避難されている福島県の方々の苦しみには共感いたしますが、一方的にどちらかが加害者で

、どちらかが被害者であるという意識が変わってゆかなければ、改めて国や電力会社の方々とも一緒に

今後の日本を作ってゆこうという方には向かってゆかないでしょう。

京都から出来ることは、私たちもこの不幸な状況を一緒に背負ってゆくという想いを特に福島県の被災者の方々に

届けることだと思います。全国から「私も加害者です。あなたたちだけに苦しみを背負わせて申し訳ありません。」

という心からの言葉が被災者の方々に届くことを願っております。

 サンガはサンスクリットで共同体を意味する言葉です。漢字では僧伽(そうぎゃ)と書き、これを略したのが僧です。

従って元来の僧は出家者個人を表す言葉ではなく、佛教を信じ、実践する人々の集いを意味していました。

ブッダ・佛(真理に目覚めた人)、ダルマ・法(真理・教え)、サンガ・僧の三宝を敬うことが

佛教者の最も基本的な態度として定められておりますが、僧を敬うとは仲間を大切にすることを意味しているのです。

800年前に法然上人(1133~1212)は「どんな人間でも『南無阿弥陀佛』と唱えれば、一切の生きとし生けるものを

佛に成らせようとする阿弥陀佛の本願の力(他力)によって阿弥陀佛が建立した清らかな世界〔浄土〕である極楽に

往生(往き生まれること)し、阿弥陀佛のお導きによって悟らせていただくことができるから、

『南無阿弥陀佛』と唱えて生きよ。」と教えられました。

信心を定めて『南無阿弥陀佛』と唱えるのではなく、『南無阿弥陀佛』と唱えていると信心が定まってゆくのです。

被災地では、御遺体が発見されない、御遺体の身元が確認できない、死後被曝で永久に御遺体を収容できない、

墓が建てられないなどの非常事態が続いておりますが、正にこのような時こそ、阿弥陀佛は震災で他界された方々や

犬・猫・牛・水族館の魚たちなど、生きとし生けるものを極楽にお迎え下さり、成佛へとお導き下さっていることを

『南無阿弥陀佛』を唱えつつ信心していただきたく存じております。法然上人の佛教では『南無阿弥陀佛』を唱えながら、

この世で何を願い、如何に実践して生きてゆくのかは個々の意思に任されています。

 世界では出口の無い戦い、痛ましい事件が続き、日本では未曾有の震災が発生しておりますが、

お釈迦さまが説かれた縁起(生かされて生きている)という真理を実感し、心に余裕のあるときには

慈悲(生きとし生けるものに対する分け隔ての無い大いなる友愛と心を寄り添わせる同情)の精神に基づいて、

他人ではなく仲間とともに生きる社会であるという意識を持って、こだわらず、みかえりを求めず、

生かされていることの感謝の表現として、出来るときに、出来る対象に、出来るかたちで、

布施〔法施(佛教を説く)・財施(金品を差し出す)・無財施(柔和な顔、穏やかな眼差し、

身体を他者のために使う 等)・無畏施(安心を与える)〕に代表される菩薩行を実践することを理想としつつ、

煩悩にまみれ、善悪ではなく損得ばかり考えて生きている自己中心的な己の現実を見つめながら、

法然院という場をお預かりし、信心の確立、学び、安らぎ、出会いの場として皆様方と集い、

少しでも心豊かに暮らせる社会となりますよう、法然上人の教えの現代的意義を説いてまいりたく存じます。

社会的役割を担って生きることが現代における生きがいとなっておりますが、寺は参っていただく処ではなく、

会社では肩書があり、家に帰られても家での役割に押し潰されそうな時に、肩書や役割を外して帰って来ていただき、

慈悲に溢れる佛と向き合い、楽になっていただく処です。心の潤いと糧の補給にお立ち寄り下さい、

「阿弥陀さん、ただいま!」と。合掌。

                                法然院  梶田真章

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コメント

  1. Henry Miura より:

    初めてコメントします。法然院の梶田真章さんのお話の内容、いいですね。わたしは梶田さんのお話は聞いたことはありませんが、上田紀行さんの「がんばれ仏教」(NHKブックス)の中で、“筋金入りの自然体”として、梶田真章さんを取り上げていました。この本を読む前に法然院には一度立ち寄ったことがありました。大阪時代に知っていれば、「法然院サンガ」に参加したかったです。
     また、この「がんばれ仏教」という本は、高橋卓志(「寺よ変われ」)、玄侑宗久、南直哉など若手の気鋭の仏教者の活動を取り上げており、仏教に希望が持ててきます。ご関心がありましたら是非ご一読下さい。

    • nono より:

      ありがとうございます。 玄侑宗久さんの本は、読んだりしています。日曜日にも「法然院サンガ」で
      中村哲さんの話があったのですが、行きそびれました。友人が、とても 感動されてました。
      近くなんだから、また、行こうと思っています。9月には、親鸞の話を聞きに行きます。
      年齢もあり、昔と違いすーつと、心に入って来ますね。年を重ねると良いこともありますね。

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