今回の、ののが綴る徒然日記テーマ

幼き頃・・・8・・洋子になりたかった!

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梅田で遊んでいた時の大事なガラスは「ケンパ」と判明。そうかなぁとおぼろげに思っていたが、

東京の知り合いのAさんより早速連絡あり、「ケンパです」と。丸を書いてケンケンして蹴って行くのも

あると友人と話していてはっきりもした。Aさんはあれを口に入れ、出なくなって泣いたらしい。

なんとむちゃなことを、と思うが子供は、本当に大人が考えられないことを突然にするものだ。

またセルロイドの下敷きをケンパでこすると甘いイチゴの匂いがしたらしい。知らなかった。

<小学校一年生・ 一人目の洋子ちゃん>

入学してすぐに隣の席の子と仲良くなる。 名前は洋子ちゃん。

私はクラスでも後ろから3番目と背が高い方だったが、洋子ちゃんは、もっと、飛びぬけていて、

大きくもう3年生位に見えた。頭はきっちりとしたおかっぱ頭、こんなにもよくまっすぐに

切れるものだと見とれてしまう程。それより何よりほっぺたの両方にヘっこむエクボが可愛い。

始めは<エクボ>と言うのも知らない私。

「洋子ちゃんほっぺた可愛いね」と言ってみた。「うん、皆に言われるねん。エクボや!。」と、

なんかとても得意げに鼻も膨らんで言った。そしていっそうエクボをへこませて笑っていた。

(あの エクボ欲しい!私もエクボの子になりたい!)

それからはどうしたらエクボを作れるか毎日毎日 鏡とにらめっこをして

(あっ そうや、爪とかで押したら良いねんや)と。

その日以来、爪や鉛筆でほっぺたを押し続ける、それに加えて押されたのを口の中でひたすら噛む。

これを右の方だけ続けていたらある時少しへっこんでいる。

(わぁーエクボ出来ている!洋子ちゃんには負けているけど、出来た!洋子ちゃんや!)

それ以来、右だけ少しへっこんだエクボを、気づいてもらうための笑い方をしていたが誰からも「エクボ可愛いね」

と言われなかった。今ははっきりと、皺になりし作りエクボが残っている。年輪を重ね・・・。

<2年生・・・ パーマ屋の洋子ちゃん>

2年生になり高槻の家から祖母の家に一家で転がり込み 転校生となり学校に行く。

ドキドキして行った学校では、転校生はめずらしく、皆、休み時間になると机を取り囲んで

私のところに来る。そのときは、まだ母も居たので服装は母が選んだお洒落な服だったし、

母の妹が美容院を経営していたので、髪の毛にパーマをあてていたので、注目の的だった。

私は少しよそ行きの子になり 上品に笑って見せたりして演技をしていた。

しかし、子供は、珍しがるのは3日ぐらいで、その後はいつものクラスに、すぐに戻ってしまう。

戻ってしまうと、そこで揺るぎない人気のある女の子の存在に気づく。

駅前の有名美容院の洋子ちゃんだ。

(また、この可愛い子も洋子ちゃん?なんでやのん?洋子ちゃんはなんで可愛いのん?)

そこへ 頭もよく男子の中での一番人気の男の子が洋子ちゃんに近づき、何かあげている。

一番人気の男の子と一番人気の女の子だ。凄い!他の子にも何かあげていたのだが、

洋子ちゃんには一番きれいな「あてもん」で当てたルビーの指輪をやっている。

(わぁ~きれい~ 私も欲しいなぁ~ ええなぁ、やっぱり洋子と言う名前の子は可愛いねんや。

せやから あんな指輪も貰えるんや、洋子と言う名前にして欲しかったわ!)

ひたすら羨ましかった。

<4年生・・・転校していった洋子ちゃん>

少しいろんな面で消極的だった私がやや前に出られるようになったのは、3年の後半からだった。

何故、変わったかというとクラスの委員を決める3学期に始めて委員に選ばれたからだと思う。

自信というのはそんな事で付いて、行き生き方とか性格とか変わるものなのだ。

1学期に選ばれるのは、やはり人気1番で、勉強も1番の子。2学期はやはり2番の子。

3学期は、なんかうやむやな人気者で、今いち、はっきりしないが選ばれないよりましかと思った。

2学期の時の委員で、背は小さくて髪の毛は長く緩やかなカールをしていた子が転校することになった。

「呉」という所に。洋子ちゃんだ!。転校する発表があってからは、私の時といっしょで机を取り巻く

毎日だった。呉という地名を覚えたのもその時だった。

(なんでに洋子と名のつく子はみんな可愛いのや。しゃれた名前をつけたから可愛くなるのか。

私の名前はあんまり可愛い名前でもしゃれてもいないなぁ~洋子・・ええなぁ)

洋子・・・ そのころには しゃれていた名前だったのかも。

小学校入学式


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幼き頃・・・7・・蝋石は必需品

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梅田のおばさんの所には、私より3才下の従妹がいたが、都会の子の雰囲気がしていて

なんか年下なのに負けている気がした。その界隈の子供たちは着るものとかもお洒落だった。

(やっぱり小阪と違う。ましてや私はねえちゃんのお古やし。ちょっと気軽に遊ばれへん)

いつも姉のお古の服を着せられていたし、その頃と言うより小さい時から着るものには、

私なりに拘っていて、敏感だったから、余計に気押されて窓から見ていてなかなか下には、

降りていけなかった。

ある日、紙芝居も去った後で、もちろん夜、パチンコ屋の前の道路に、蝋石で絵を描いたり、

(ケンケンパ)と自分の石を蹴って進んで行く遊びが始まりだす。

その遊びは小阪でも遊んでいたし得意だったから、勇気を出して下の集まりに入れて貰いに行く。

従妹の紹介もあり、それ以来、時々都会の子たちと馴染みだしたが、本心はやはり気押されていた。

ただ、遊ぶには蝋石は必需品だった。(これさえあれば遊んで貰える、それに蹴る石のガラスのきれいなのも

持っているし、これは自慢の物やしいけるわ)と。子供は子供で付き合い方にいろいろ悩むもので気も使うものだ。

それは今も昔も変わらないのかも知れない。昔ははっきりと差別するのが当たり前だったが、

今のように、陰湿ではなかったように思う。傷ついている人ももちろん多かったが、

傷をつけている側も皆、貧乏だったから、ホンの少しの優越感を持ちたかったのだろう。

子供もそんな大人を見ていたし、影響は当然あったから、平気で、お前!朝鮮人やろとか言っていた。

ただ言うだけで遊ぶのは遊んでいたと思う。先生たちも給食代を払わない子に、皆の前で平気で

「おかあちゃんに言うとき、早よう持ってくるように!」と言っていたのを酷いとも思わないでいた。

とりあえず、無事に夏休みは、都会の子の仲間入りは一応出来ていた。

小阪に帰ると、友達には、「梅田はちがうで~、都会やわ~。夜に、夜にやで、紙芝居が、来るねんで!

お便所も水洗やねん!水洗って知らんやろ?水で綺麗に流れて、臭くもないし凄いねんで~水洗は!」と、

鼻の穴を膨らませて自慢していた嫌な子だった。他に自慢するのが少なかったから・・・。

ところで「私の自慢のガラス」蹴る物の名前が分からない。

ビー玉のガラスと同じで1センチぐらいの厚みがありいろんな色が入っている。

大きさはおせんべい位の丸。

投げるのでなく滑らせる、そして、蹴りながらすすむ。

いろいろ 昔の遊びで調べたが載っていない。図ははっきりと分かるので描いてみた。

ほぼ正確と思う。が ガラスの玉とか遊びの名前とか知っている方よろしく。

中原淳一のえはがきです。



 


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阪神は大勝で ご機嫌の一夜じゃあ

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   世間は昨日ワールドカップで沸く中、急に阪神ー中日のチケットが手に入り

   天を見上げると雲行きはやばい。京都の方はもう凄い黒雲が重くこちらに向っている。

   でも私は絶対に晴れ女!!を信じて一緒に行くメンバーを捜す。熱心な阪神ファンの

   (Y女史)はダメで残念!私の阪神熱は女史の大いなる影響で詳しくもなり 面白みも

   楽しみ方も高まって行ったので女史と行かない阪神戦なんて餡のない饅頭みたいなもん。

   で、 仕方がないことではないが古いボーイフレンドを誘って出かける。彼が雨男でないことを

   信じて。3年前に4人位で行った以来と言うS氏はその頃の選手の名前のコピーを持っていて

   居なくなった選手の名前に 「あ~あ~そうだったな。赤星 濱中 今岡 片岡 か。シーツも」

   野球選手も華やかな時代って 短いもんだし せつないな~と言いながら。。。

   球場に着いたらいつもの勝ち弁当をS氏にほぼ強引に買わす。 しかし弁当の中身がいつもとちと違う気が・・・・・・

   ここでもY 女史が居ない不安が・・・・・弁当まで頼ってどないすんねん~~

   さあ~出陣 席は1塁側前から4列 一塁のブラゼルが手の届く所に来るやん!!きゃ~ブラゼル!!

   今日は黄色い声だすぞ!S氏はよく写る道具をきっちり持っているではないか!!で また金本を撮れとか

   マートン撮れとか命令する。が なんだかだと試合が始まると今日はホームランのオンパレード!Y女史からも

   「どないなってますのん?私が行かなかったらホームランばっかり」とメールがきたり 笑いが止まらない試合だった。

   明日が怖いわとか これが阪神やとか他愛もない会話をしながら外を見ると京阪電車付近では 大雨が降った後の様子が

   見られ やっぱり私は晴れ女!阪神戦 11-5の大勝じゃぁた~~~。

S氏の写真。金本ギネスに登録記念。おめでとう!兄貴!



    

キヤー ブラゼル~手が届きそう~



    


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幼き頃・・・6・・・梅田の親戚(2)

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相変わらず2階の窓は、私の居場所。飽きる事は、ない世界!今日もパチンコ屋がまぶしい!

そこへ、来たのは紙芝居!夜に紙芝居が来るのだ。パチンコ屋の明かりの下で紙芝居を見るのだ。

夜に、紙芝居!なにかの間違い?びっくり!しかし、拍子木を打つおじさん!

そして、拍子木の音が聞こえると、子供たちがどこに隠れていたのかワラワラと出てくるのだ。

昼の間、子どもは一人も見ていない。こんなに子どもが居たなんてと、昼はどうしていたのか?

私と同じように2階の窓から見て遊んでいたのか?。不思議だった。

しかし、都会の子供に気押され、出て行けず、また2階の窓から眺めていた。

一人でそうしていても、観察するのが好きだったから楽しかった。

その親戚にも、おばあちゃんがいたが、やさしく、 毎朝、お茶の袋を入れたお粥を食べていた。

一度食べたが美味しくはなかった。お粥が、お茶色をしていて不思議だった。

確かふるさとの食べ物で、毎日食べるのが当たり前だと。和歌山か吉野の方だったのかなー?

叔父さんも時々お粥を食べていたから、やはり風習だったのだろう。

おじさんは、お酒も好きだったので、おばあさんは、家で息子の為にぶどう酒を作っていた。

ある日、ぶどう酒のビンを突いて、蓋をし、満足そうな顔をしたおばあちゃんだったが、しばらくすると

爆発音がして、蓋をした瓶からぶどう酒が吹き上がっていた。一滴も残らずに、噴いていた。

びっくりし、みんなが集まった。唖然とし無言、しばらくすると、みんな大笑いをしていた。

面白いおおらかな親戚の人たちで大好きだった。

何度か梅田の家での夏休みを過ごすと、一人で環状線で帰れるようになっていた。

その頃は、<ショウセン>と言っていた。

<鶴橋で乗り換えて(小阪)!> それを何度も繰り返し、しっかり自分に言い聞かせた。

しかし、京橋に近づくと、胸のドキドキが止まらない。窓の外を、見るのが怖い!しかし見てしまう。

今の大阪城公園辺りだ。

戦争中の空襲で、焼け焦げた工場などがそのままで、川は濁りそのそばには、バラックがいっぱい建ち並んでいた。

その風景はなんど見ても慣れることがなく、子供の目にも、つらく移っていた。

随分とたってから、<開高 健の「日本三文オペラ」>を読んだ。衝撃だった!。

アパッチと言われた人々が あの時にあの場所にいたんだ。

在日朝鮮人との生きるための壮絶な戦いがあそこに、あったんだ。

私が見た焼け焦げた工場の、くず鉄を奪い合う戦いと、必死に生きる人々がいたんだ。

そして、電車の窓から見ている小学3年生の私が、同時にいたのだという変な感動が胸をしめつけた。


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幼き頃・・・5・・・梅田の親戚。

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祖母が、夏休みになると、私などの事を持て余し、しんどかったのもあり、

よく親戚の梅田の家に預けられたりした。

梅田は、私が日ごろ過ごしているところとはまるで違う別世界だった。

その場所は、阪神百貨店の裏で、今、梅田第4ビルになっている。

その親戚には従妹もいて一番好きな人たちだった。

祖母と祖父が駆け落ち同然で一緒になり、その後、父の妹として生まれた叔母だ。

やさしく、祖父に似ていた。その家は あまり大きくはないのだが、階下を商店に貸していて、

うず高く積み上げられた毛布が、夏でもあった。その辺りは、戦後バラックのようなのが、

次々と立ち、路地が入り組んでいた。戦後の商売の名残りだったと思うが毛布や布を扱っている問屋が

ひしめきあっていた。 親戚の家の隣は、パチンコ屋だった。パチンコ屋も、珍しく、住んでいた

東大阪にはまだない時代だった。それに、早くも水洗便所があったのだ!。上から鎖のようなものが、

ぶら下がっていて、瀬戸物の握りがあり、引っ張るのだ。毎回、びくびくしながら用を足す私だった。

だから、梅田のその場所は、本当に都会だったのだ。

隣のパチンコ屋のネオンがキラキラしていてまぶしかったが、私が興味を抱いたのは、その辺りに

ウロウロする大人たちだった。

何か怪しげで、目を話す事が出来ず、二階の窓からずっと見ていた。

*  まず オバサンたちが 黒いエプロンをしていて なにか物色していて怪しい?。

*  次にパチンコ屋から出てきた男たちが、ウロウロ、キョロキョロと、していて怪しい?。

*  オバサン 男に近づく 怪しい?。

*  オバサンと男 暗い路地の隅に行く 怪しい?。

*  オバサン エプロンからお金を出す。怪しい?。

*  男タバコを渡すと、すばやく金を受け取り消える。怪しい?。

私にはすべて怪しい情景だった。が、ドキドキしながら飽きずに見ていられた。想像が膨らむ。

後に分かるのだが、パチンコをギャンブルとして認めていない頃で、たばこを現金にするのは違法で警察が

目をつけることだったみたいだ。

それを小学3年生の女の子が怪しいと思い2階から、ずっと見ていたのだ。光景の方が可笑しい。楽しかった!

それを小学3年生の女の子が怪しいと思い2階から、ずっと見ていたのだ。光景の方が可笑しい。楽しかった!

でも 路地からは何時も鼻をツンとさせるおしっこの匂いがした。

映画館と同じ匂いだった。

梅田の家

左の写真は、高校生になって久々に、尋ねた梅田の家。

この2階から、じっと見ていた私がいた。

まだ、繊維問屋街が残っている。60年代に、入っていたかも。

 

 


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ぼくの近頃は・・・

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最近は梅雨と言うらしいうっとうしい日が続いている。

だから夜中にいろいろ暴れて楽しんでいる親子だ。

先日、すまし顔のお母さんが何処かから見つけてヤモリを

口にくわえて走り回り一番虫の嫌いな家人(娘)に見つかり

大騒ぎ。男の子を呼んだり悲鳴をあげたりで 面白かった。

とうとうなんとかして取り上げられ、片方の足がちぎれたヤモリ君は捨てられた。

ぼくも一度機会あればやって見よう。絶対やる。だって母はとても得意な顔で

その後毛づくろいなんぞしていたのを見て羨ましくてたまらなかった。

で 昼間はみんなこんなです。


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幼きころ・・・4・・・父のあだ名は豆腐や

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あの身勝手な父のあだ名が、親戚の叔父や叔母の間で、「豆腐や」と言われていた。

「豆腐屋ってなんでや?」と、疑問に思っていたが、私は、親戚の人たちが好きではないので

聞く勇気もなかった。 ある時、叔母と祖母が「あの おおぶろしきが」と父の事を、話している。

聞き耳を立てていたら、「すぐに 大きな話してからに!1兆 2兆って!言うてからに!

せやから豆腐屋ツて言うねん」と。 あ~そう言うことか 「1兆は1丁かそれで豆腐屋か」と、

凄く関心してしまった。別に父はそれで人を騙したのでなく、単純に、ええ格好しいやったんや。

何時だって変なプライドを持っていたから、事業に失敗しても、這い上がり小さくても良いから

また、会社を設立して「社長」と呼ばれたかったのだ。 父が亡くなるまで、余り会わない状態が、

あったのだが最後の居場所の、老人ホームでのあだ名が『社長』だったと聞き、笑ってしまった。

また、そのホームでは「過去三大名物爺さん」だったとか。「明日東京で取引の会議があるんで」と言い、

目を離したら本当に駅の方にお洒落をして行ってたりとか、 毎日薄くなった眉毛を描いてたとか、

首の皺を隠すのにスカーフを巻いてたとか、自分の棚があり、コーヒーを入れるのが好きで、

老人たちがもめると、「さあー コーヒーでも入れまひょか」と言い、甲斐甲斐しく入れて、

ムードメーカー的存在を引き受けていた様である。

それはお金のない時に、私の貯金箱を割り映画を観る父と、私の中で繋がっている。

どこか憎めない子供のような薄笑いを浮かべていたように思う。

今思うと祖母の家に一家で転がり込んだ時、祖母は確か77歳くらいだったと計算する。

そんな年齢で、に母親とはそりが合わず、子供がいて、金がなく、当然祖母は困惑し、

キツイ顔しか出きなっかたのだろう。おまけに母は出て行くし、子供の私とかをどうやったら良いか

分からなかったと思う。その頃はキツイので嫌いだったが、きっと、身体もしんどかっただろうに。

頼りになる父の事は、母として可愛かったのだろうと、今なら、充分に祖母の事が分かる。

でも、あだ名が<豆腐や>の、のん気な父は、死ぬまで分からずだったろうね。

父の旅行

 

景気の良かった頃。後ろの2番目の偉そうな父。

社員旅行のようだ。昔の伊勢!夫婦岩かな?


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教室展

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今回で4回目の教室展も5月の19日に無事に済みもうひと月になる。

いつも大変だけれど 終わるとやはりいろんな人の話が聞けたりして

良かったと感じる。特に今回の教室展は評判がよく中にはグループ展

と思ってくれた方もいたようである。

器とかがあまり展示してないかもしれない。 皆の作品を一部紹介します。

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生徒仲間の作品ですがほんの一部です。

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教室案内

藤野さち子・陶芸教室

教室住所 枚方市牧野阪1丁目23-5

マキノ美術研究所内

日時 第1 3水曜日(午前の部10:30-13:00)

(午後の部14:00-16:30)

受講料 5,000円(材料費別途)入会費1万円

*ホームページ マキノ美術研究所で検索

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大奮闘!

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春にモッコウバラが満開になり 黄色のフェンスが出来上がりとっても

和ませてくれました。成長が早く2年位で凄くのびてしまいます。

新芽もこの時期にどんどん出てきて切るのはしのびなく バラのアーチを

作ることにし、2~3件の日用雑貨の店を物色し 一番安いのをゲット。

すぐにパーツを組み立てて出来上がりました。しかし安いのはやはり?

少しの不安はありますが来年の春を楽しみに。

小さな庭なのにバラのアーチとはですが。      <春のフェンス>

 


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幼き頃・・3・・・貯金箱を割る父

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いろんな事が起こったその年は、私はまだ小学校1年生の終わりであった。

今、我が家に同じ一年生と下の娘の方にも一人いるが、皆、屈託なく過ごしている。

こんなのが普通なんだろう。しかし私が過ごした小学校時代はいろんな想いをした子供たちが沢山いた。

はっきりとした差別は当たり前の時代だった。<在日朝鮮人の子供とは遊ぶな>と周りの大人たちが、

遊ぶのを禁止していたりした。 私は意に返さず遊んでいたし、よく分からなかった。

私の6年生頃までの経験はその後もすさまじく、記憶の中で「くったくなく」と言うのは、なかった。

いろんな大人達を見てきた私は、6年生のままで今まで止まっている気がする。

物の見方や考え方など、なんという小学生だったかと思うのだが、その頃に強烈な事がありすぎ、

その後は余り印象にないのだ。あったとしても嫌なことは嫌な事として残り、この頃のように、

嫌な事でも面白かったとして思い出せないのだ。

肉親という関係で大人と暮らしたのが6年生までで、その後は、ほとんど帰らない父と姉と、

お手伝いさんだったりした。

父は何から這い上がったのか、大変な事業の失敗から、2,3年したら、もう景気が良かった。

良くなってから父は再婚する。

小学校時代の祖母や祖父の毎日の出来事が、嫌でもなく可笑しくなつかしいのはなぜだろう。

毎日、毎日、短い間でも過ごした「家」という物だったからかも知れない。

その頃の父のことに戻ると 本当にむちゃな男だったと思う。

人間誰しも同じだろうが、お金がある時と、ない時、はっきりと違う顔があり忘れない。

お金のない時は、普段ほとんど家にいない父が、家にいた。私はうれしかった。

ある時「貯金箱持ってるやろ?もっといで。」「うん」 持って行くといきなり割られた!。

びっくりしている私に「映画いこか?」と笑って言い、すぐに、立ち上がっていた。

私は父と映画に行けることの方がうれしく、にこにこして着いて行き、貯金箱を割られたことは

消えていた。もともとたいしたお小遣いがあったわけでなく、時折、父が家に帰ると着物に着替え、

ズボンをかけた時に落ちた小銭を、ちょっいと、くすねて、貯めたものだったから、

こちらも良心が痛んでいた訳だから(おあいこ)ということにした。

この時代の男は、大体家では、着物に着替えていた。良き風習あったと思うし、 父親という存在が、

その事で、なんとなく威厳があった。

映画館は歩いてすぐのところにあった。どんな映画を観たかは覚えていない。

たぶん、大人の観る映画であったろう。父が子供の貯金箱を割ってまで、行きたかったんだから。

羽振りの良いときに、長屋のような家の前に、見た事もない大きな車に乗って帰って来たことがある。

まるで(西岸良平)のまんがの世界といっしょで、近所の子供がワラワラと出てきた。

私は鼻たかだかであったと思う。戦前 戦中 戦後と何で大もうけをし、そしてすべて失ったか知らない。

戦前はともかく、戦中戦後が羽振りが良いのは、まともな商売でなく、戦争により儲けた人間だと思う。

軍需工場を、鶴橋や日本橋でやっていたと後で知る。その後はきっと、政府の人間と繋がり進駐軍の

仕事をしていたのだろう。その繋がりが切れたときに大きな倒産になったと想像がつく。

若い頃、商売の事を、母の実家、母の父に教わった奉公人で、その後に、成功し、母方が没落したところを、

「おじょうさんを下さい」と小説のようないきさつで、母と結婚したのである。

母はやはり苦労が耐えられず、また父の姑さんとかの生活は出来ず家を出たのである。

小学2年の私などを残して。父も母も勝手な人間だったと思うが、あの時代に、人間らしく自分らしく生きたのかも。

自分が年齢を重ねてくると分かるものだし 私自身もそうであったかもと思う。

羽振りの良かった頃の父と怪しいおっちゃん。

けがりまった


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