幼き頃53・・・おやじに嫁来る・・2

若くて美しいおやじのお嫁さんAさんとの生活が始まった。

頼りの姉は居なくなり、毎日が緊張と不安とが入り混じった奇妙な日々。

それにも少し慣れた頃、4人姉妹の妹さんたちが次々と訪れて来た。

中でも下の妹Hさんが、一番よく来た。顔はAさんと全く似ていない。

浅黒く小柄でさばさばとした男っぽさ、私には馴染みやすい人だった。

Aさんの色白の女らしさに比べて、ほんまに姉妹?と疑うほどだった。

卓球が上手かったので、近くの卓球場で初心者だった私を特訓してくれた。

お陰で一緒に卓球クラブに入った友達より、早く上達しだしたので不思議がられた。

その妹さんからも「お父さんはほんなこつ50歳とね~~?」と博多弁で聞かれた。

<ほんなこつ~と、私に聞かれても、ほんなこつ、うち困るか~~>と、心の中で返した。

おやじは、どないかして、こげな綺麗かこつ嫁の家族を説得したかこつあるやろか?

(これ、正しい?博多弁?)か!

今更中学生の私が聞いたところでどうなる事でもないかと、いろんな大人を見てきた私は

自分の言いたい事は呑み込んだ。

そんな時、急にお手伝いのスミちゃんが辞めてしまった。

なんとなく嫌な予感?・・・。

おやじの経済状態が余り好くない具合になって来ているのでは?

今まで、おやじの浮き沈みを嫌と言う程見て、その煽りを充分に受け育ったんだから、

そんな空気をいち早く察する嗅覚が備わっているわたしゃ<子供大人>なんだ・・・・・・。

あの悪夢の姉に騙された夏休みから一年経った夏休みを迎えようとしていた。

夏休み、父は私を東京や、兄のいる千葉に連れて来た。兄は千葉にいたのだ。

その頃、父の仕事は綿の開発を地元の農家とする事業をしていたのだ。

それで兄を責任者として千葉に居らせたらしいが、現実はかなり厳しいようだった。

食事の賄いのオバサンと兄と同じ位の青年たち3人が住み込んでいた。

厳しい事だと察したのは、毎日の食事が余りに酷かったのだ。

朝食に、一つだけ小さな卵やきが付いていたのは私の分だけで、兄を含めて他の人は、

麦ご飯と味噌汁と漬物、のりの佃煮だった。夜もキャベツとコロッケと味噌汁と漬物だった。

もう世間では食生活は少し良くなりつつあったので、青年達は不満がいっぱいだった。

それに、父は詳しくAさんのことを兄にまだ言ってなかったのだ。なんでや!そうか!

あんな豪華な毛皮のコートを買ってたりしては、こんな生活をさせている兄に言えないか!

開発が上手く行けば大きな夢が花開いただろう。でも会社の名前だけは大きかった。

「日本綿花・・・」とかで、なんでも日本とつけるのが好きだったのだ。

事業に関わっていたと思う人に、後に日本中が知る某事件で有名になった人がいた。

後に、その事件で知ったのだが、夏休みを過ごした家は、その人の持ち家だった。

父はそこに私を置いて行ったが一度も泊まりもせず、酷い食事もしなかった。

全く楽しくなかった夏休みも終る頃家に帰るととんでもない現実ガ待ち受けていた。

Aさんのお腹に私の弟なる者が存在した事を知らされる。

ほんなこつか~どないなると~~・・・・。ああ~~中2の悪夢の夏休みは終った・・・。

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