幼き頃・・・24・・・おじいちゃんの晩酌

おばあちゃんより10歳年下の、おじいちゃんは、目が見えなかった。

戦後すぐにメチールと言う、アルコールを飲んだためらしい。

そのメチールアルコールを飲んだ話は、世間には知られたくない話のようだった.。

しかし、近所の人は皆、知っていた。メチールアルコールは殆んど酒でなく どちらかと言うと、

消毒液のような物だと、後で、誰かに聞いたように思う。

戦後は、お酒などなかなか手に入らないため、酒好きな人は、分かっていても、手を出したのだろう。

おじいちゃんは、後悔していたかどうかは知らないが、お酒は毎日欠かさず晩酌をしていた。

コップに注がれた日本酒を、目が不自由なのに、上手に口に持って行き美味しそうにしていた。

それをみているおばちゃんも、少し、少な目のお酒を飲んでいた。そんな時の二人はとても仲がよく、

なにかしら 話をしていた。その部屋は、玄関を入ってすぐの3畳ぐらいの部屋だった。

小さな玄関には、植木を植えていて、たしかヤツデの葉だった。私は、そのヤツデの葉を見ると、

天狗が頭の中をよぎった。部屋の前に大きな石があり、部屋に入るにはその石の所にあがり、

靴なり、下駄を脱ぐのだ。今思うと、大変な高さがあり、目の見えないおじいちゃんは、よく落ちたり、

怪我などしなかったと感心する。今の私など到底、無理だ。ましてや、おばあちゃんに至っては、

利休下駄をはいていた。日和下駄とも云う薄い二枚葉がはまっている。前の所に被せの皮を

はめると 雨の日に履けた。おばあちゃんは台所での仕事で着物の裾が汚れないように

少し高いを履いていて、それで、起用に甲斐甲斐しく働いていたから、昔の人は凄いと思う。

その石の上に履物をおいて上がる。いまの私だと、もう大変と思うのに、目の見えないおじいちゃんも

おばあちゃんも平気で上り下りをしていた。何時、こんなにも現代人の、足、腰が弱くなったのだろうか。

私がご飯を食べるのは、その部屋の隣、また3畳ぐらいのところで、箱膳を前にして、食べるのだ。

そのころは一人一人、皆、箱膳だったから、おばちゃんたちも箱膳を向かい合って置いて食べていた。

献立は殆んど煮物とおつけものと味噌汁ぐらいだった。魚の粗と大根が多く、苦手だった。

食べ終わると食器は、一段下に降りた漆喰の土間の台所に持って行き、水を貯めたバケツの中で洗い、

拭くのが、決まった仕事だった。箱膳もきちんと拭いて仕舞わないとと叱られた。

そんな仕事が全部済んでしまうと、まだ、早いのに布団を敷きだす。キセルのタバコ盆セットを枕元に、

そして、ラジオをつけて、寅蔵の浪曲を聞く準備に入る二人だった。とても、仲良しだった。

利休下駄・ おばあちゃんのはもっと、安い感じのものだった。

laCTo7um

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