奈良にて

うらた

うらたじゅんさんが「黄色い潜水艦」の追悼号に載せたイラストです。

私の引越し祝いに額に入れていただいた自筆です。

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奈良には住んでいる枚方から車で4、50分で着く。

東京の友人が奈良に泊まると言うので久しぶりに出かけた。

奈良は小説家の川崎彰彦さんがこの2月に亡くなられるまで 出版パーティーに

出席したりして出かけることがあったがゆっくりするのは久しぶりだ。

車で走らせながらいろいろと思い出された。

川崎彰彦さんは五木寛之さんと早稲田大学時代の同級生で こよなく酒を愛し続けた人、

牧野に住んでおられたときには店に足しげく通ってくれたダンディな人で帽子がとても

似合っていた。 会った時は酒が原因で一度倒れられた後だ。

その頃は店も賑やかで毎日お祭り騒ぎのような毎日だった。

川崎さんもエノケンの「おれは町中で一番 粋といわれた男・・・」とご機嫌で唄い

店の女の子たちにも人気があった。Pちゃんには「結婚するなら川崎さん!」と言われて

大いに照れている川崎さんだった。18歳の女の子にだ、周りの男どもはやきもちを焼いていた。

牧野の学生アパートに住んでおられ「息子が阪神フアンで東京から来るのでママ、この2階に

泊めて貰えませんか」といとも簡単に頼まれ、こちらもいとも簡単に「いいですよ」と言って

2階に泊まって貰った事もあった。その後奈良の浮見堂の側に引越しされた。一度冬に鍋の

道具をすべて用意してドイツ人が別荘として建てたアパートに何人かでお邪魔した。別荘の後は

ラブホテルになったこともあるらしく階段の赤い絨毯が何とも言えない雰囲気を醸し出していた。

ふんだんに飲んだ私たちは酔いながら奈良公園を散歩、その時に梅一輪を頂き、魯迅の写真の前に

飾り「主人の卒論が魯迅だったんです。」と活けたのを (短冊型の世界)にこんな風に書いてもらえた。

小さな本棚の上の

魯迅先生の写真の前に

白梅の短枝が活けてある

花器は私の湯飲み茶わんだが

私が活けたのではない

きのう来た酔漢酔女のうちの

一人の酔女のしわざだ

宿六の若い日の卒論が魯迅だったと

いっていたっけ

その後 2回目に倒れた川崎さん。

私が精神的に悩んでいた頃、奈良のリハビリテーションにお見舞いに行った事がある。

その時私は何も言わないのに「ママ こんなになったよ。でもママは

惨めになる人ではないから・・・」と。 不自由になった口で言って貰えた私は

帰りに涙が止まらなかった。お見舞いに行った私が慰められ救われた。

何事かあるとき何時も(私は惨めにはならないのだ。川崎さんが言ってくれたわ。)

と自分に言い元気づけられてきた。人は自分は気づかないで言葉で救っていると思う。

うらたじゅんさんが「黄色い潜水艦」の追悼号に載せたイラストです。

店を辞めて5年以上になるが一度も写真など見ても泣いたりしなかったのにこのイラストでは

泣けてしまった。写真よりある意味いろんなものが詰まっています。

川崎さんいつも飲んでいたカウンターですよ。

初盆ですね、川崎さん、どうぞ思いっきり飲んでください。

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