今回の、ののが綴る徒然日記テーマ

幼き頃・・・9・・一番好きだった家

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何故、母の登場がないのか?姉妹は?とか思うだろうが、殆ど、一緒に暮らしていなかった。

だから、当然記憶に残らない。一家で長く過ごしたのが高槻の家で、小学校1年生までだ。

生まれたのは摂津富田だが幼すぎて何も覚えていない。すぐに高槻の家に引っ越したようだ。

父が、戦争はますますひどくなると思い、街中より山の方が安全かと高槻に家を建てたらしい。

そうした点は、先見の明があったのだと思う。摂津富田の頃が一番景気は良かった様だが、

高槻から浮き沈みが、始まったようだ。私の記憶が残る頃だから、私は良い時を知らない。

高槻の家は町からは、奥の方にあり、家から先は、山で誰の家もないところだった。

父は仕事さえ上手く回っていれば、陽気でハイカラで、子供の教育も斬新で母の事も大事に、

した男だったと思う。

それは家の設計にも出ていて、兄と姉と私3人の勉強部屋はサンルームになっていた。

戦争中に建てたと思うのだが、どうしてそんな家が建てられたのか分からない。

父は、人が来ると必ず「サンルームって言いますねん。」と得意な顔で説明していた。

台所も真ん中に料理屋のような引き出しつきの大きな調理台があった。

そこで父がうどんを作ってくれた事がある。母は殆んど料理らしいものは作れなかった。

母の料理は、何も覚えていない。父がおやつに「カルメラ」を作ってくれたり、中国料理を、

作ってくれたりしたのを、覚えている。何事もまめで凝り性だったのだ。

兄は、何かにつけて気に入らないと、泣くし、切れて暴れ、暴力を振るう性格だった。

私からは、6歳も年上だから、すごく離れている感覚があり、怖くてずっと好きになれなかった。

兄が亡くなるまでそれは続いた。家が良い時代に、長男として大切に育てられ、それが抜けきれず、

可愛そうな性格のまま終わった人だ。

何時も口癖で「おやじがあんな失敗しいひんかったら、俺は、医者になりたかったのじゃ」と、

何時も愚痴っていた。お酒を飲んでは、そのことを、繰り返し、繰り返し、していた。

それを聞いている姉と私は、<絶対に無理やった>と思っていたが・・・。

姉は、いろんな才能を持っていた。父や母に余り頼らずに、一人、我が道を行くと言う風だった。

兄より強かった。そんな姉には、兄も、一目置いていた。随分と小さいときでも近所の子供に

兄が泣かされたと聞いて、竹ざおをガラガラと引きずり敵討ちに行ったとか。

この話は、親戚の集まりには、必ず、話されていた。兄が亡くなるまで、姉との関係は変らなかった。

兄と姉と一緒に遊んだ事の記憶は、私には短く、数えるぐらいしか残っていない。

遊びでの一番はターザンごっこ!。竹やぶから竹やぶへ竹に縄を結び「あ~あ~」と行き来するのだ。

もちろん私は出来ないで見ていただけ、木の上に登っている姉が、「おい!チータ!」と、私を呼ぶ。

いつもチータは私。「木の実を取って来い!と命令する。私はターザンにくっ付いているチータだ。

それでも遊びに入れて貰うのがうれしくて「きゃきゃきゃ。はい!」なんて忠実に本当に山の中で

木の実を探し、渡すのだった。「もっと取って来い」「きゃきゃきゃ はい!」と。

確か <うすい>と言う木の実だったと思う。長く見たことがないが・・・。

姉は木の実を食べて笑っていた。後で「あの子はチータになってるのが好きやねん。何ぼでも木の実を

取ってくるわ~~。あ~面白かった!」と 兄に言っていた。調子に乗せられていたのだ。

高槻の家を出るとき、<いつか又金持ちになってこの家に戻ってやる!。>と微かに思ったようなのは、

一人で、後で作った気持ちのような気がする。

下の写真の家の周りにいっぱいの家具が並べられた。

後で出てくる従妹と母、兄、姉。こんなに映っている写真は一枚だけだ。家はまだ、酷くなかった時代。

犬の名前は「ジープ」。兄は、この頃笑っていたのだ。

家好きな高槻の家


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